退職理由は一行

梶原芹奈の前には、二つの封筒があった。

一つは転職先から届いた内定通知。もう一つは今朝、役員から渡された処遇改善案だった。転職活動をしていると知られた途端、基本給を上げ、来期から主任にすると書かれている。

「必要とされてるじゃん」と同期は言った。

芹奈も一瞬そう思った。七年間、増員を頼んでも予算がないと言われ、評価面談では「もう少し主体性を」と言われてきた。それでも辞める気配を見せたら、紙一枚で条件が変わった。

内定先が理想の会社というわけではない。面接官は早口だったし、通勤も二十分長くなる。処遇改善案を受ければ、慣れた場所で給料が上がる。転職に失敗して「残ればよかった」と思う未来は、簡単に想像できた。

退職届の〈退職理由〉欄は一行しかない。

芹奈はそこに「一身上の都合」と書き、手を止めた。本当は、遅すぎた評価、増え続けた業務、便利な人でいることへの疲れを全部書きたかった。けれど会社を説得する作文ではない。辞めると決めた自分が、決定を提出する紙だった。

二つの封筒を重ねると、処遇改善案のほうが厚かった。肩書きも金額も具体的で、内定通知より魅力的に見える。

それでも芹奈は思った。残る理由が「辞めると言ったら条件が良くなった」だけなら、次に苦しくなったとき、また辞めるふりをしなければならない。

処遇改善案には、主任就任後の目標も細かく書かれていた。人員は増えず、責任だけが一段増える内容だった。金額が上がれば納得できると思っていたのに、紙の中でも自分は相変わらず、足りない場所を黙って埋める人として扱われていた。

内定承諾書に署名し、退職届を白い封筒へ入れた。役員室までの廊下で、何度も足が遅くなった。

扉の前で、芹奈は二つの封筒を左右の手に持ち直した。未来を比べる材料はもう十分だった。どちらが正解かではなく、片方を言い訳にせず持っていけるかだった。

ノックする前に、処遇改善案の封筒を鞄へ戻し、退職届だけを両手で差し出せる位置に構えた。