遠い窓
喫茶「白磁」は地下にあるのに、閉店後だけ窓が明るくなる。
椎葉梢が初めてそれを見たのは、店主に頼まれて帳簿を手伝った夜だった。
階段の向こうでは十二月の雪が降っている。ところが客席の東窓には、青い空と、柿の実を干した軒先が映っていた。ガラスの向こうを、夏服の小学生が自転車で横切った。
梢は鉛筆を落とした。
そこは、生まれ育った谷の村だった。
二十年前、ダムの底へ沈んだ。家も、分校も、母が毎朝水を撒いた朝顔の鉢も、今は魚の影しか通らない。
「カーテン、閉めましょうか」
店主は驚きもせずに尋ねた。
梢は首を振った。
窓の中では、夕立の気配がしていた。
母が縁側へ出てきて、干した柿を慌てて取り込む。顔までは見えない。それでも、歩幅でわかった。
梢は大学進学を口実に、村を出た。沈むことが決まった土地に残る母を、古いものにしがみつく人だと思っていた。最後の引っ越しの日も帰らなかった。
母は仮設住宅で一年暮らし、谷を見下ろす病院で亡くなった。
梢は窓辺に立ち、指でガラスをなぞった。
向こうの雨は、こちらを濡らさない。
「ただいま」
言ってみると、地下の店に自分の声だけが残った。
店主は何も聞かず、熱い紅茶を置いた。
梢は帳簿を閉じたまま、村が夜になるまで見ていた。軒先に灯りがつき、母の影が一人分の食卓を整える。梢の席も、昔と同じ場所にあった。
携帯電話が震えた。
娘からだった。
《残業? シチュー焦げそう。帰ってきて》
梢は笑い、目元を拭った。
《火を止めて。すぐ帰る》
コートを着て、もう一度窓を見る。
そこには谷ではなく、見慣れた団地の台所が映っていた。曇ったガラス、鍋の蓋を持ち上げる娘、二人分の皿。
外は相変わらず雪なのに、台所だけがあたたかそうだった。
梢は店主に頭を下げ、階段を上った。
帰る場所を失ったのだと思っていた。
けれど失くした場所を恋しく思えるのは、今夜帰る場所があるからなのだと、雪を踏んで初めて気づいた。
翌週、梢は帳簿の続きをしに来た。
閉店後の窓には、どこにでもある団地の夕焼けが映った。
彼女はもう驚かず、少しだけ急いで鉛筆を走らせた。