避難袋のいちばん上

川が堤防を越えた夜、母と少女は、ハムスターのもち麦を連れて中学校の体育館へ逃げた。

受付の職員は飼育ケースを見て困った顔をした。

「動物は体育館に入れられません。外の軒下へ」

雨は横殴りだった。ケースを置けば水が入る。車へ戻ろうにも、駐車場は膝まで浸かり始めていた。

少女は避難袋を床へ置き、もち麦のケースを胸に抱いた。

「この子だけ避難してない」

大人たちは返事を探した。アレルギー、衛生、鳴き声。どれも大切で、だからこそ、少女には「仕方ない」が誰かの命を数から外す言葉に聞こえた。

受付を手伝っていた白髪の男性が、廊下の奥を指した。

「掃除道具の倉庫を空けよう。換気扇がある。人の寝る場所とは扉二枚ぶん離れてる」

責任者が規則を口にすると、男性は言った。

「規則を破るんじゃない。一匹ぶん、書き足すんだ」

彼は二十年前の水害で、避難所へ連れていけないと思い、飼い犬を家へ残した。水が引いたとき、鎖だけがあった。その話を、少女にではなく責任者へ向かってした。

倉庫は一時間で小さなペット室になった。

もち麦のほかに、猫二匹、文鳥一羽、老犬一頭が集まった。飼い主が交代で世話をし、アレルギーのある人から離れた動線を決めた。入口には手洗い表と、動物の名前を書いた名簿が貼られた。

深夜、停電した。

体育館で子どもが泣き、雨音が屋根を叩いた。暗い倉庫では、もち麦が回し車を走り始めた。

からからから。

少女は扉の向こうの母へ言った。

「聞こえる。いつもの夜だよ」

音は小さかった。それでも近くにいた人たちは耳を澄ませた。家が無事か分からなくても、明日の食事が足りるか分からなくても、一匹が普段どおり走っている。その事実が、夜をほんの少しだけ普通にした。

朝、男性の家が流されたと連絡が入った。

少女は何も言えず、もち麦の餌袋を差し出した。

男性は一粒受け取り、ケースへ入れた。

「今度は、置いてこなかったな」

雨がやんだあと、避難所の運営記録には、ペット同行者の受け入れ手順が新しく加えられた。男性が最初の一文を書き、少女が動物名の記入欄を作った。

帰宅の日、少女は避難袋を背負い直した。

いちばん上には、もち麦の餌と水。

その隣には、まだ余白の多い名簿。

避難とは、人間だけが助かることではない。

「家族」の欄を、最後の一匹まで書き終えることだった。