酸素口座を一つにしない

 火星都市では、結婚すると二人の酸素口座を統合できる。

 一方が病気になれば、もう一方の配給を回せる制度だ。

 娘が低酸素区出身の相手と結婚すると告げたとき、父は反対した。

「相手の家は配給債務を抱えている。お前の酸素が目当てかもしれない」

「人を残量で見ないで」

「生活の話だ。愛情だけでは呼吸できない」

 相手は幼少期の肺疾患で、平均より多く酸素を使う。結婚すれば娘の口座から補える。

 母は賛成し、兄は判断を避けた。家族会議の画面には、父だけ赤い反対票を入れた。

 娘は投票結果を削除した。

「なぜ消す」

「私の結婚を、家族の多数決にしないため」

「なら相談するな」

「反対の理由は聞きたい。でも、決定権は渡さない」

 相手を交え、四人で生活設計を開いた。

 酸素口座は統合しない。

 それぞれの配給を維持し、緊急時だけ使える共同備蓄を積む。

 相手の家の債務は相手自身が返す。

 娘が不足した場合も、相手だけが一方的に支える義務は負わない。

「そこまで分けるなら、結婚する意味は何だ」

 父が尋ねた。

 相手は答えた。

「一つになるためではなく、別々の責任を持ったまま、助けを求められる相手になるためです」

 父は納得しなかった。

 結婚式にも出ないと言った。

 当日、娘は父の席を空けず、最初から三人分だけ家族席を用意した。来ない人を待つ演出で、式を支配されたくなかった。

 誓約が始まる直前、会場の空調が一時停止した。

 非常用酸素が流れ、参加者の端末へ残量が表示された。

 その混乱の中、入口から父が入ってきた。礼服ではなく作業着で、共同備蓄用の小型ボンベを抱えている。

「設備局から借りた。式場の予備が少ない」

「来ないって言ったでしょう」

「賛成してない」

 父はボンベを床へ置いた。

「でも、お前が選んだ日に息が足りなくなるのは困る」

 娘は笑うより先に泣いた。

 父は家族席ではなく、最後列へ座った。

 式のあとも、赤い反対票は取り消さなかった。

 ただ共同備蓄の管理者欄へ、自分の名を追加した。

 愛情は、同じ意見になることではない。

 相手の選択を止められないと知ったあとも、その人が呼吸できる場所を残すことだった。