酸素家系図

火星第三居住区では、酸素炉を起動できる者が家系図で決まっていた。

百二十年前、最初の入植者が自分の遺伝鍵を炉へ登録した。その直系子孫だけが、更新手続きを行える。

古海亜紗は、第三炉の最後の鍵保持者だった。

樫尾隼世は後発移民の子で、地球の海洋研究所に合格していた。

火星に海はない。だから彼は、いつか本物の潮を見たいと笑った。

亜紗も一緒に地球へ行く約束をしていた。

出発の一週間前、管理局から通知が届いた。

〈鍵保持者が居住区外へ転籍した場合、第三炉の使用権を停止する〉

停止対象は四百十二人。

亜紗の一族が名門だからではない。古海の血がなければ、炉が開かない。それだけの理由で、家柄は酸素と同じ重さを持っていた。

「炉の鍵を書き換えればいい」

隼世が言った。

「百二十年、誰も成功してない」

「俺が残って研究する」

「海へ行くんでしょう」

「君より大事じゃない」

「その言い方をしないで」

二人は居住区の外壁へ出た。

透明ドームの向こうには、赤い砂嵐が広がっていた。地球行きの軌道船が空の一点で光っている。

「結婚すれば、隼世も古海家の一員として残れる」

亜紗が言う。

「それを望んでる?」

「望んでない。あなたが海を諦めて、酸素炉の婿になるのは」

「じゃあ一緒に来て」

「四百十二人を窒息させて?」

隼世は手袋越しに彼女の手を握った。

「家柄なんて、昔の人が作った仕組みだ」

「うん。でも、その仕組みで今日も子どもが息をしてる」

出発日、亜紗は軌道港まで彼を送った。

別れの書類には、関係解消の理由を選ぶ欄があった。

〈価値観の相違〉

〈遠距離〉

〈その他〉

隼世は〈その他〉へ印をつけ、横に書いた。

〈酸素〉

亜紗は泣きながら笑った。

「ずいぶん現実的」

「本当は、家系図って書きたい」

「もっと嫌」

「じゃあ、好きだったから」

「それは理由にならない」

「別れる理由にはならなくても、忘れない理由にはなる」

軌道船が上昇すると、窓の中の隼世は青い惑星へ向かった。

亜紗は赤い大地へ戻り、第三炉へ手を置いた。

遺伝鍵が認証され、四百十二人分の空気が流れ始める。

その音は正しかった。

だからこそ、彼女には残酷だった。

家系図は二人の名前を結ばなかった。

それでも同じ呼吸を諦めたことで、一人は海へ行き、四百十二人は明日も息をした。