金メダルは平熱
大鋸沙矢は、表彰台で一度も泣かなかった。
感情安定剤を使う選手は珍しくない。歓喜による注意散漫も、敗北後の抑鬱も抑え、毎日同じ精度で練習できる。沙矢は射撃競技で世界記録を更新し続け、「平常心の女王」と呼ばれた。
薬を勧めたのは、幼いころから彼女を指導した父だった。大会前に眠れず吐いていた娘を見かねたのだ。最初の一錠で恐怖は消え、的の中心だけが見えた。勝つたび契約は増え、服用量も上がった。
三十歳の世界大会で、沙矢は最後の一発を中央へ当てた。観客が立ち上がり、国旗が揺れた。体内AIは心拍上昇を検知し、即座に鎮静剤を追加した。
金メダルを首にかけられても、昼食の献立を聞いたときと気分は同じだった。
帰国すると、八歳の娘が画用紙を広げた。母の試合を見ながら作った手書きの得点表で、数字は何度も書き直され、最後の欄だけ大きな花丸になっていた。
「ママ、うれしかった?」
「もちろん」
「どれくらい?」
沙矢は答えられなかった。娘は少し考え、花丸を消しゴムで消した。
「じゃあ、これはいらないね」
その白い跡を見た瞬間、薬では消しきれない痛みが走った。沙矢は翌日、減薬を申し出た。コーチもスポンサーも反対した。感情の揺れは成績低下につながる。父は「苦しかったころに戻るぞ」と言った。
「戻りたいんじゃない。あの子の花丸が見えるところまで戻るの」
減薬後、沙矢は試合前に吐き、予選で二度外した。記録は落ち、契約も半分になった。だが地方大会で久しぶりに優勝したとき、手が震え、涙が止まらなかった。
娘は客席から叫んだ。
「今、どれくらいうれしい?」
「怖いくらい!」
沙矢は笑いながら答えた。
翌年、彼女は代表選考に落ちた。帰り道、娘とコンビニのアイスを分けた。悔しくて味がしないと思ったのに、苺の甘さだけは妙に鮮明だった。
沙矢はメダルを減らした代わりに、勝敗が自分の中を通り過ぎる音を取り戻した。平熱ではない人生は疲れたが、その疲れまで自分のものだった。