針箱の赤い糸

祖母の針箱には、赤い糸巻きが一本だけ残っていた。

孫娘は裁縫が嫌いだったが、祖母が亡くなったあと、針箱を引き取った。

蓋の裏には、家族の服を直した日付が細かな字で並んでいる。

弟の入学式前夜、制服の袖が短いと分かった。

孫娘は針箱を開き、ため息をついた。

すると赤い糸が自分でほどけ、針の穴へ通った。

針を布へ刺すと、糸は勝手に縫い始めた。

孫娘が手を添えなくても、細かな縫い目が袖口を進む。

ただし糸は、服に残っている記憶の形にしか動かなかった。

弟の制服にはまだ思い出がない。

赤い糸は二針で止まった。

孫娘は困り、祖母の古い前掛けを膝へ載せた。

糸は勢いよく走り、何度も繕われたポケットの周りをなぞった。

祖母が弟へ飴を隠した場所。

孫娘が失敗したテストを押し込んだ場所。

母が病院から届いた手紙を、しばらく開けずに入れていた場所。

赤い糸は、前掛けから細い一本を伸ばし、弟の制服の袖へ移った。

祖母のポケットの記憶を、何もない布へ少しだけ縫い込むように。

翌朝、袖はちょうどよい長さになっていた。

内側には赤い糸で小さな四角ができている。

弟は「目立つ」と嫌がったが、入学式から帰ると、その四角へ拾った桜の花びらを入れていた。

針箱はその後も、古い布にだけよく働いた。

父の作業着には母のため息を縫い、母のエプロンには子どもたちの笑いを縫った。

新しい服ではすぐ止まる。

だから孫娘は、直す前にその服の話を聞くようになった。

「どこで破れたの」

「誰といたの」

「捨てたくない理由は何」

町の小さな繕い店を始めると、客は穴より長い話を持ってきた。

亡くなった人のシャツ、子どもが初めて着た帽子、別れた恋人にもらった鞄。

赤い糸が動かない物もあった。

そんなときは、孫娘が普通の糸で縫った。

思い出が足りないのではなく、これから使うための傷なのだと思った。

弟が成人した日、制服を店へ持ってきた。

袖の赤い四角は、何度も洗われ薄くなっていた。

「もう着ないけど、ここだけ取っておきたい」

孫娘が鋏を入れると、赤い糸が一度だけ震えた。

切り取った四角は、新しい財布の内側へ縫った。

今度は糸が勝手に動かなかった。

弟がこれから入れる切符や写真や、まだ起きていない記憶を待っているようだった。