鏡にいない乳母
自分の名を子どもの掌に書けば、夜明けまでどんな呪いもその子を見つけられない。その代わり、名を与えた者の姿は、二度と鏡に映らない。
乳母のユーニャは、銀盆に映る自分の顔を見納めるように眺めた。
城の外では、王子の誕生を祝う花火が上がっている。けれど揺り籠の中の赤子は泣き止まない。窓の隙間から、針のような黒い霧が入り込み、まだ名もない額を探っていた。
夜明けまで生き延びれば、祝福の鐘が守りになる。あと三時間。
「護衛を増やせ」と命じる声が廊下で飛び交う。剣では霧を斬れない。祈祷師は間に合わない。
ユーニャは赤子の小さな手を開いた。
自分の名を書けばいい。たった四文字で、この子は朝を迎えられる。
代わりに鏡を失う。
水面にも、磨いた匙にも、窓の夜景にも、自分だけが現れなくなる。
それだけ、と言えばそれだけだ。だが来月、ユーニャは婚礼を控えていた。母の形見の鏡の前で髪を結い、仕立てたばかりの白い衣を確かめるはずだった。夫になるトセルは、毎朝同じ鏡に二人で映ろうと笑っていた。
鏡に映らなくなれば、化粧も髪も自分では確かめられない。老いていく顔も、泣いた後の目も見えない。何より、並んだ二人の姿を一度も持てない。
赤子が咳き込み、黒い霧が指先へ触れた。
「あなたは、まだ自分の顔を知らないものね」
ユーニャはインクを指につけた。掌に最初の文字を書く。霧が身を引いた。
二文字目。赤子の呼吸が深くなる。
三文字目。銀盆の中で、ユーニャの輪郭が薄れた。背後の壁紙が頬を透かして見える。
最後の文字を書く前に、扉が開いた。トセルが駆け込んでくる。夜警の制服のまま、彼女の肩を抱いた。
「やめろ。別の者を探す」
「探している間に、この子は死ぬ」
「私たちの婚礼は」
「鏡がなくても、あなたが見ていて」
トセルは答えられなかった。ユーニャは笑い、赤子の掌に最後の一画を引いた。
黒い霧が悲鳴を上げて消える。
銀盆から、彼女の姿だけが抜け落ちた。
そこには、誰にも抱かれていないように見える赤子と、宙に浮いたトセルの腕だけが映っていた。