鏡のない口紅
鳴海透子は百貨店の化粧室で、口紅を塗っては拭き取っていた。翌日は転職面接だった。赤すぎれば強く見え、薄すぎれば頼りなく見える。採用サイトの社員写真を思い出し、同じような色を探して三本買ったのに、どれも自分の顔では浮いて見えた。
前の職場では、会議のたびに「もう少し柔らかい印象で」と言われた。笑えば軽く見られ、真顔なら怖いと言われる。退職して一か月、透子は面接の答えより、面接官が安心する顔を作ることに時間を使っていた。スマートフォンには、口元だけを撮った写真が二十枚並んでいる。面接先を選んだ理由より、「感じのよい人」に見える角度のほうが詳しくなった。前職を辞めた本当の理由は、意見を言うたび表情や声の柔らかさを直され、内容より印象を採点されることに疲れたからだ。それなのに次の場所へ入るため、また同じ採点表を自分へ向けていた。
隣の鏡の前へ、白髪の女が立った。珠代と名乗る前に、女は鞄から真紅の口紅を出し、鏡を見ずに唇へ滑らせた。輪郭は少しはみ出している。それでも女は直さなかった。
「見ないんですか」
透子は思わず訊いた。
「口の端って、見ないと見つからないもの?」
女は唇を軽く合わせた。
透子は答えられなかった。鏡を見ても、自分の口の端が正しい場所にある気がしない。
「明日の朝、一度だけ鏡を伏せたまま塗ってみて。似合うかどうかは、外へ出てから考えればいい」
珠代はそう言い、真紅の口紅をしまった。年齢を訊く間もなく、杖の音を響かせて出ていく。洗面台には、赤い輪郭のついた紙コップが残っていた。
翌朝、透子は面接用の白いブラウスを着た。髪を結び、鏡の中の襟を三度直す。口紅を持つと、昨日より顔色が悪く見えた。目の下の影も、左右の眉の高さも気になる。
透子は卓上鏡をぱたんと伏せた。
唇の場所を指先で確かめる。口紅は思ったより柔らかく、下唇の中央から端へ静かに伸びた。上唇では少し曲がった気がしたが、ティッシュで押さえるだけにした。
鏡を起こせば、すぐ確認できる。面接まで直す時間もある。
透子は鏡に手をかけず、口紅の蓋を閉めた。玄関の鍵を取り、見ていない顔のまま扉を開けた。