雨に返す傘

澪奈の傘立てには、透明なビニール傘が五本と、黄色い傘が一本あった。黄色いほうは三年前、叔母にもらった。広げると内側に小さな鳥が飛ぶ。汚したくなくて、一度も雨に濡らしていない。叔母は「雨の日ほど派手な色がいい」と言っていたが、その叔母が遠くへ引っ越してから、傘だけが玄関に残った。

澪奈には、そうして取っておく物がほかにもあった。箱入りの香水、客用の紅茶、白いワンピース。使わないことで、大切にしているつもりだった。

小雨の日はビニール傘、大雨の日もビニール傘。黄色い傘は、ちょうどいい特別な日に使う予定だった。

梅雨の夕方、隣室のファラが廊下でしゃがんでいた。ヨルダンから来た彼女は大学で保存修復を学び、濡れた本を新聞紙に挟んでいる。コンビニ傘が風で裏返り、鞄の中まで雨が入ったらしい。

澪奈はタオルを貸した。玄関の黄色を見たファラが、鳥の柄に気づく。

「この傘、何回濡れたらあなたの傘になりますか?」

「まだ一回も」

「では、まだ店の傘?」

澪奈が笑うと、ファラは濡れた新聞紙を交換しながら言った。

「次の小雨で、一番好きな傘を使う。大雨まで待つと、本も傘も忙しいです」

忠告というより、天気予報の読み上げのようだった。

翌朝、窓には細い雨粒がついていた。降水確率は三十パーセント。駅までなら走れる程度だ。澪奈はいつもの透明傘を抜きかけ、奥の黄色に指をかけた。

今日ではない、と考える理由はいくつも浮かんだ。満員電車で骨が曲がるかもしれない。会社の傘立てで取り違えられるかもしれない。午後には晴れる。

けれど、特別な日が傘を迎えに来るわけではない。

澪奈は黄色い留め具を外した。玄関前で開くのは少し恥ずかしく、建物を出るまで閉じたまま歩いた。軒下の端で立ち止まり、透明傘を差す人々の列を眺める。

そして、黄色い傘をひらいた。

頭上に鳥が一斉に現れ、雨粒が初めて布を叩いた。澪奈は濡れ始めた自分の傘で、駅とは反対側のパン屋へ一歩だけ遠回りした。