雨の女は第四幕で笑う
雨の夜、私立探偵の煤谷玄路を訪ねてきた女は、傘を差していなかった。
槙尾玻奈と名乗った彼女は、濡れた髪をかき上げ、机越しに玄路を見つめた。
「あなたを探していました」
「依頼なら料金は前払いだ」
「お金では買えない話です」
「恋はいつもそう言って始まり、たいてい高くつく」
「私の秘密を、あなたにだけ知ってほしい」
「続けて」
「あなたしか、この役を務められないの」
玄路は煙草をくわえた。火はつけない。事務所が禁煙だからだ。
「危険な女だ」
「よく言われます」
「夫がいるのか」
「います。第四幕で殺されます」
「ずいぶん具体的だな」
「台本に書いてありますから」
玻奈が鞄から取り出したのは、薄い脚本だった。表紙には『市民劇団みぞれ座・秋公演 消えた花婿』。
「探偵役が急病で降板したんです。あなた、本物の探偵でしょう? 立っているだけで生活に疲れた感じが出る」
「褒めているのか」
「勧誘しています」
玄路の中で育ちかけた恋情は、舞台袖へ引っ込んだ。
「断る」
「出演料は弁当二個」
「断る」
「ヒロインとの接吻場面があります」
「台本を見せろ」
こうして玄路は舞台に立った。台詞は棒読み、動きはぎこちない。しかし容疑者を見る目だけは本物で、観客から「怖すぎる」と好評だった。
問題の第四幕。玻奈演じる未亡人が、玄路の胸に飛び込む。
「あなたをずっと待っていたわ」
玄路は台本どおり答えた。
「それは愛の告白か、それとも新しい依頼か」
「今度こそ、告白よ」
ここまでは台本にあった。だが次の接吻は、指定より三秒長かった。
終演後、玄路は楽屋で脚本を確認した。
「三秒、長い」
「探偵は細かいのね」
「台本にない行動には理由がある」
「役者として残ってほしいから」
「また勧誘か」
「半分は」
「残り半分は?」
「さっき舞台で言ったでしょう」
玻奈は笑った。劇中では一度も見せない、犯人でも未亡人でもない笑顔だった。
玄路は煙草をくわえ、やはり火をつけずに言った。
「次の公演の題名は?」
「『探偵、恋に落ちる』」
「配役は」
「あなたしかいないの」
玄路はその台詞を二度と簡単に信じないと決めた。それでも入団届と交際申込書の両方に署名したのだから、探偵としては失格だった。