雨竜タクシーの車内放送
深夜の雨竜タクシーで、鷲尾玄也は後部座席を靴のまま蹴った。
「赤信号なんか無視しろ。会食に遅れたら、お前の会社を潰すぞ」
運転手の斑鳩壮馬は速度を上げなかった。
「安全運行にご協力ください」
「市議会交通委員長の顔も知らないのか? 料金も払わん。むしろ迷惑料を出せ」
鷲尾は前席の防護板を拳で叩き、携帯電話を耳へ当てた。
「例の業者に伝えろ。明日の入札額は三億二千万だ。他社は三億三千万で出させる。録音? こんな貧乏タクシーにあるものか」
壮馬は何も言わず、目的地の議員会館前へ車を止めた。
鷲尾は降りずに領収書を要求し、裏へ書き込んだ。
〈運転手が遠回りし、五万円を要求したため支払い拒否。免許取消を求める〉
署名まで済ませて、壮馬の胸へ投げる。
「明日には無職だ」
「お客様」
壮馬は天井の赤いランプを指した。
「防護板への打撃を検知した時点で、緊急通信が開始されています」
車内放送が鳴った。
『雨竜運行センターです。暴行検知後の音声と位置情報を保存しました』
続いて別の声が入る。
『警視庁捜査二課です。入札額に関する発言も明瞭に受信しています』
鷲尾は携帯を落とした。
「冗談だ。運転手への威圧も、番組の企画で……」
「では、こちらの申告は?」
壮馬は署名済み領収書を返す。車載計器には最短経路、正規料金、停止時間が印字されていた。五万円の要求など一度もない。
「それは酔って書いた。公文書じゃない!」
『交通委員長名義の運転監査申告は、提出時点で公的記録となります』
運行センターの声が淡々と答える。
会館の入口から、傘を持った刑事たちが近づいてきた。鷲尾はドアをロックしようとしたが、緊急通信中は外側から解錠できる。
「市議だぞ。誰か私に傘を差せ!」
通りにいた秘書たちは目を伏せた。壮馬だけが客用の傘を開き、刑事へ渡した。
壮馬はメーターを止めた。正規料金は二千八百六十円だった。
無線の向こうで議会事務局長が文書を開く音がした。
『鷲尾玄也議員に、交通委員長職の解任および収賄・談合容疑の逮捕状執行を通知します』