雨粒を抱くガーベラ
唐沢郁乃の勤めるネイルサロンには、毎週木曜、開店前に橙色のガーベラが届いた。
花は受付のガラス瓶に一本。札も伝票もない。雨の日でなくても、花びらには細かな水滴が残っていた。
水漏れのあと、店内には新しい床材の匂いがしばらく残った。予約を断った客から低い評価もつき、郁乃は一件ずつ電話をかけ直した。橙色の花は、その作業が終わった翌週から届き始めた。明るすぎる色が、かえって誰かの後ろめたさに見えた。郁乃は花をバックヤードへ隠さず、毎回受付の正面に飾った。理由の分からない親切でも、客が「元気な色ですね」と笑うと、店の空気まで少し乾いた。
裏口の鍵を持つ大家の宇賀神、先月辞めたスタッフの牧瀬、隣で鮮魚店を営む保科。店長は「誰かのファンじゃない?」と笑ったが、郁乃は三人の顔を思い浮かべた。
茎を留める輪ゴムには魚市場の青い印。包み紙にはかすかな潮の匂い。そして花が置かれる木曜は、鮮魚店が仕入れから戻る日だった。
郁乃が裏口で待つと、発泡箱を積んだ保科が、ガーベラを背中に隠した。
半年前、鮮魚店の古い給水管が破れ、サロンの床まで水が回った。保科は長靴のまま何度も雑巾を絞り、郁乃の道具箱を高い棚へ運んだ。休業は一日で済み、保険も下りた。それでも保科は何度も弁償すると言った。郁乃は本部の担当者に「建物の老朽化です。隣のお店を責めないでください」と説明し、追加請求を止めた。
「あなたがかばったと知ってから、謝りに行くほど、また気を遣わせる気がしてな」
ガーベラは、保科の妻が屋上で育てたものだった。花びらの水滴は、仕入れ箱の氷が溶けたしずくではなく、妻が「店に入れるならきれいに」と吹いた霧だった。
「もう十分ですよ」
「じゃあ、今日で終わりにするか」
郁乃は少し考え、首を振った。
「匿名を終わりにしてください。花は、奥さまのお名前で」
昼過ぎ、保科の妻から差し入れの生姜飴が届いた。郁乃は橙色の花を眺めながら一粒なめる。
潮のあとに、やさしい甘さが残った。