青インクの校正者

小さな出版社へ転職した紫藤礼奈は、古書店で旧版の文章作法辞典を買った。欄外には青インクの細かな訂正がびっしりあり、古い校正記号の見本として面白かった。

礼奈は落選そのものより、返却原稿の赤字に傷ついた。比喩も会話も「平凡」「冗長」と切られ、自分の言葉は全部、正解から外れていると思った。それ以来、小説は書かず、他人の文章を整える仕事を選んだ。だから古本の訂正を眺めるのは平気なはずだった。それでも青い一行を見た時、十年前に閉じた原稿の頁が、机の中で音を立てた気がした。

ところが読み進めると、訂正の中に妙な一行があった。

〈夕焼けは、帰りそびれた手紙の色——この比喩は直さない〉

その一文は、礼奈が新人賞へ出して落ちた原稿にしかない表現だった。原稿を読んだ可能性があるのは、上司の倉橋、営業の黒江、月に一度資料室へ来る元校正者の沢渡だけだ。

手掛かりは三つ。青インクは昔の社内指定色。頁の丸い染みは、沢渡が必ず頼むほうじ茶の湯呑みと同じ大きさ。そして「直さない」の横にある二重の波線は、十年前まで沢渡だけが使った保留記号だった。

倉橋は原稿を読んだが、その比喩までは覚えていないと言い、黒江は青ペンを使わない。沢渡だけが辞典を見るなり「まだ残っていたか」と呟いた。礼奈は犯人を当てた喜びより、その声に含まれた後悔の長さが気になった。

資料室で尋ねると、沢渡は眼鏡を外した。

かつて新人賞の下読みをしていた彼は、礼奈の原稿へ大量の赤字を入れた本人だった。選考結果とは無関係だったが、返却された原稿を見た礼奈が筆を折ったと、後から知ったらしい。

「正しくすることばかり考えて、声まで消した。謝りたかったけれど、名乗ればまた先生顔になる」

古書店へ手放す前、自分への戒めとして青で書き直した。その本を礼奈が偶然買ったのだ。

「偶然にしては、出来すぎですね」

「本は時々、持ち主より執念深い」

礼奈は辞典を開き、空いていた余白へペンを置いた。

〈訂正を受け取った。ただし、筆は折れたままではない〉

沢渡は何も直さず、頷いた。

黒江が差し入れたカステラを、二人で資料室の机に分ける。礼奈はざらめのついた端を一口かじった。

「この甘さは、削らないでください」

沢渡は青ペンの蓋を閉めた。

「そこは、そのままで」