青線を越える検査票

市来充希が橋脚内部へ入る直前、保守端末に通知が届いた。

〈四十八歳の自分より。十六時二十分まで、床の青線を越えるな〉

開通式は明朝。今日の荷重試験に合格すれば、充希は最年少の主任になる。足元には塗りたての青線、胸ポケットには銀色の検査ペン。上司が無線で言った。

『センサー値、全部正常だ。署名だけ頼む』

充希は青線の手前から確認し、検査票へ署名した。十六時二十分、橋が低く唸り、照明が消えた。

目を開けると、また入口だった。

〈青線を越えるな〉

『センサー値、全部正常だ。署名だけ頼む』

二度目は署名前にボルトを数えた。三度目は図面を照合した。差分だけを調べても、青線の向こうを見ない限り異常は出ない。越えれば通知が激しく震え、十六時二十分に時間が戻る。

九回目、充希は銀色の検査ペンを青線の向こうへ転がした。拾おうとした作業員の靴が床板を踏む。その瞬間だけ、正常値だったひずみ計が振り切れた。青線は立入禁止ではない。補強材を入れ忘れた区画を隠すため、上司が今朝引いた線だった。

未来の通知に添付された写真では、開通した橋の前で四十八歳の充希が社長としてテープを切っている。橋は十五年間、偶然大きな地震に遭わず、欠陥は表に出ないまま改修される。黙れば誰も死なず、会社も充希の未来も守られるらしい。

成功条件は、十六時二十分まで異常を記録しないこと。

十回目。

『センサー値、全部正常だ。署名だけ頼む』

充希は青線を踏み越えた。警告通知が視界を埋める。銀色のペンで床板に大きな円を描き、欠陥位置を動画に映す。次に試験装置の非常停止を押し、検査票の〈不合格〉へ署名した。

工期遅延の違約金は会社を倒産させる額だった。連帯保証人には、創業家の婿である充希自身の名もある。主任どころか、貯金も新居も失う。

〈十五年、何も起きない。なぜ壊す〉

未来の自分から届いた最後の通知を、充希は青線の写真と一緒に監督機関へ転送した。

「何も起きなかったことを、合格にはできない」

十六時二十分。橋は低く唸ったが、試験荷重はすでに抜かれていた。時計が二十一分へ進む。

上司の怒鳴り声を聞きながら、充希は銀色の検査ペンを欠陥区画の中央へ置いた。青線はもう、隠すための境界ではなかった。