音で漬かった胡瓜
柊木寧々は午前二時、祖母のぬか床から胡瓜を一本抜いた。
三週間前から、匂いがほとんど分からない。風邪は治ったのに、出汁も焦げも同じ空気のままだった。レストランでは先輩の表情を盗み見て、味見をしたふりでうなずいている。昨日はソースの鍋を焦がしかけた。匂いに気づいた後輩が火を止めたのに、寧々は自分が確認したような顔をした。礼を言えなかった嘘が、退職届より重く残っている。
明日の朝、料理長へ退職届を出すつもりだった。鼻の利かない料理人を置いてくださいとは言えない。医師には回復まで時間がかかることもあると言われたが、「こともある」は厨房では役に立たない。
祖母のぬか床だけは、引っ越しのたびに持ってきた。祖母も晩年は鼻が弱り、毎朝ぬか床の重さと野菜を入れた時刻を手帳へ記した。寧々はそれを几帳面な性格のせいだと思い、方法として教わろうとはしなかった。レシピ帳の一頁目には塩と水の量があり、最後の余白へ祖母の字がある。
〈香りが迷ったら、曲げて聞く〉
寧々は胡瓜を水で洗い、薄く切った。冷えた一枚を舌へ乗せる。塩気は分かる。奥歯で噛むと、ぱきりと小さな音がした。皮の張りと、中の水分の抵抗も分かる。
二枚目は音が鈍かった。漬かりすぎている。
三枚目は軽く折れた。まだ浅い。
祖母は鼻が弱くなった晩年、胡瓜を切らずに両手でしならせていた。寧々は、その仕草をただの癖だと思っていた。
皿の上を食べ進め、へたに近い最後の一枚を残した。いつもなら捨てる場所だ。厚く、少し硬い。
寧々はその一枚も噛んだ。大きな音が口の中で響いた。
退職届のファイルを閉じ、料理長への文面を開く。何度も書いた〈一身上の都合〉を消した。
〈嗅覚が戻っていません。隠していました。休職か、香り以外を確かめる仕事へ変えられないか、相談させてください〉
送信する前に、胡瓜をもう一本抜く。今度は切らず、祖母と同じように両手で曲げた。
ぴん、と皮が鳴った。
寧々はその音を添付できない代わりに、退職届ではなく相談の文面を送った。