駅まで三百歩
鉄衛の家から無人駅までは、きっちり三百歩ある。若いころは二百七十歩だった。歩幅が狭くなったのか、道が伸びたのか。孫の惺矢は、道は伸びないよ、と笑う。
春休みの夕方、惺矢が町から戻る列車は六時十二分着だった。鉄衛は五時五十分に家を出た。迎えはいらないと言われているので、散歩ということにした。ポケットには懐中電灯、もう一方には飴が二つ。散歩にしては用意がいい。
田の間の道には、昼の土の温みがまだ残っていた。百五十歩目で沈丁花が香り、二百歩目で川音が近づく。ホームの端が見えたところで、鉄衛は歩調を落とした。早く着きすぎると、待っていたことが露骨になる。
列車は山の向こうから、窓をいくつも明るくして現れた。降りたのは惺矢一人だった。背がまた伸び、リュックが前より小さく見える。
「散歩?」
「そうだ」
「懐中電灯まで持って?」
「暗くなるからな」
帰り道、惺矢は大学の食堂の話をした。鉄衛は半分ほどしか分からなかったが、分からないところほど丁寧に頷いた。沈丁花の前で飴を一つ渡すと、「散歩に飴?」とまた笑われた。
家の煙突から、味噌を焦がしたような匂いが流れてきた。妻のいない台所で、鉄衛が朝から煮ておいた鯖だった。二人の歩数は揃わず、三百歩の道は行きより少し短い。玄関の戸を開けると、冷えた頬へ煮汁の湯気が触れた。
鉄衛は靴を脱ぐ孫の背中を見て、道が伸びたのではないと思った。待つ時間のぶんだけ、一歩を細かく数えるようになったのだ。
食後、惺矢は土産の珈琲豆を出した。鉄衛の家には挽く道具がなく、二人で袋の口だけ開けて香りを嗅いだ。町の店の匂いが、味噌と鯖の残る座敷へ急に入ってくる。明日、隣家で挽いてもらおうということになった。鉄衛は飴の残りを仏壇へ供え、懐中電灯を所定の釘へ戻す。窓の外では最終列車が駅を通過し、短い光が障子を撫でた。今度は迎えに出る必要のない音だった。