鰆を返す手
魚料理が苦手な夕璃は、父の朔仁に鰆の味噌漬けを習った。
白味噌、酒、味醂を混ぜ、切り身を一晩漬ける。難しいのは焼くところだった。味噌が焦げやすく、身は崩れやすい。
「触りすぎるな」
朔仁は網の前で腕を組む。
夕璃は焦げるのが怖く、何度も箸を入れようとする。そのたび止められた。
皮がふつふつ鳴り、味噌の甘い匂いが台所へ広がる。
「今」
父の声で裏返す。端が少し網へついたが、切り身は崩れなかった。
二人で食卓へ運ぶ。白い身は箸でほろりと分かれ、表面の焦げだけ香ばしい。
朔仁は定年後、家の料理を担当するようになった。母の味とは違い、魚ばかり増えた。
「お母さんは何て?」
「肉も食べたいって」
夕璃は笑った。
春の終わり、朔仁が旅行へ行き、夕璃が母の夕食を作った。鰆を漬け、網へ載せる。
「触りすぎない」と母が横から言う。
父の教えはすでに伝わっていた。
焼き上がりの写真を送り、二人で先に食べた。返信は〈焦げが足りない〉。
翌朝、残った一切れを茶漬けにした。熱い出汁をかけると味噌がほどけ、春の魚の脂が浮いた。父のいない食卓にも、焼き網の焦げた香りが温かく残っていた。
朔仁の旅行土産は、新しい焼き網だった。古い網より目が細かく、身がつきにくい。夕璃は父と並んで二切れ焼いた。今度は声を待たず、自分で皮の音を聞いて返す。片方は少し早く、もう片方は端が焦げた。朔仁は焦げたほうを自分の皿へ載せる。母は横で肉料理の本を読んでいた。春の魚を食べ終えたあと、次は豚肉を焼く約束をする。洗った網には味噌の焦げが薄く残り、水をかけても甘い香りだけは夜まで消えなかった。
夕璃は古い網も捨てず、父からもらった新しい網の下へ重ねた。焦げついた目には何年分もの味噌が残る。次に火を入れると、洗ったはずの春の香りが先に立った。
翌朝、夕璃は焦げの残った網を日に当てた。朔仁が横から「まだ洗い足りない」と言う。二人で擦ると、金属の隙間から味噌と春の海の香りがもう一度立った。