麹室の眠らない人
榛葉冬真は、酒蔵で一番よく眠る男だと言われていた。
昼間、皆が瓶詰めに追われる時間に仮眠を取り、夜になると麹室へ入る。布団のように広げた米へ手を差し込み、温度計を見ずに塊をほぐした。夜明け前には壁の結露を拭き、戸を指一本ぶん開けた。
代替わりした社長の鴨志田俊介は、その働き方を怠慢と決めつけた。
「夜中に一人で何をしているか誰も見ていない。昼は寝ている。給料泥棒を杜氏扱いする時代じゃない」
冬真は仕込みの途中で解雇された。麹の状態だけは伝えようとしたが、鴨志田は管理表を振った。
「温度も湿度も数字で見える」
冬真がいなくなった麹室では、数値は規定内に収まった。だが米の表面だけが乾き、中心に熱がこもった。仕込んだ醪は香りを失い、主力銘柄は舌に苦みを残した。鴨志田はラベルを変えて出荷したが、長年の料理店が一口で気づき、注文を止めた。瓶詰め済みの三万本は返品され、蔵の冷蔵庫を塞いだ。鴨志田は温度設定を何度変えても、同じ香りを戻せなかった。
冬真は山向こうの廃業寸前の蔵へ移った。錆びた甑と傾いた麹室しかなかったが、蔵元は「何時に寝てもいい。酒だけ見てくれ」と言った。
冬真は床板を張り直し、窓の隙間を和紙で塞いだ。夜ごと米の匂いを確かめ、若い蔵人にも米を握らせて、指の間からほどける速さを覚えさせた。春に、ようやく一本の酒を搾った。派手な香りはない。飲み込んだ後に、雪解け水のような甘さだけが残った。
全国鑑評会の公開審査で、その酒は最高賞を取った。
会場の商談席へ、海外の輸入会社が年間十万本の契約書を持ってきた。鴨志田も駆け込み、「榛葉は当社で育てた職人だ」と声を上げた。
輸入会社の代表は、鴨志田の蔵の返品報告と、新しい蔵の契約書を重ねた。
「買うのは看板ではありません。榛葉さんが眠らず見た酒です」
冬真が署名すると、新しい蔵のタンク増設費が即日入金された。鴨志田の主力銘柄は、その場で取扱商品一覧から削除された。