黄色い傘は貸さない

宮前寧々は、雨の日に傘を持っていることを隠すようになっていた。

職場では、誰かが忘れるたび「寧々ちゃん駅近いよね」と言う。貸した傘は翌週まで戻らず、相合傘をすれば寧々の右肩だけが濡れた。それでも「私は走れるから」と笑った。濡れるより、断ったあとの空気のほうが苦手だった。

梅雨の夕方、窓が白くなるほど雨が降った。寧々は机の下から黄色い傘を出した。去年、自分の誕生日に買ったものだ。

エレベーター前で同僚が声を上げる。

「傘ない。寧々ちゃんの貸してくれない? 駅すぐでしょ」

寧々は反射で持ち手を差し出しかけた。自分はコンビニでビニール傘を買えばいい。数百円で場が丸く収まるなら安い。

けれど黄色い布には、朝ついた小さな雨粒がまだ残っていた。

前に傘を貸した日は、駅まで鞄を頭に載せて走った。濡れたブラウスが冷房で冷え、午後まで咳が残った。それでも返してもらうときは「全然大丈夫」と言った。大丈夫ではなかった記憶を、今日まで自分だけが無かったことにしていた。これを選んで会社まで来た自分の予定が、他人の忘れ物より軽いとは限らない。

「今日は貸せない。私も使うから」

声が思ったより平らだった。

同僚は一瞬だけ目を丸くし、「そっか」と言った。それから一階の売店に傘があるか検索し始めた。寧々は手伝おうとしてスマートフォンを出し、やめた。売店はエレベーターを降りれば見える。

外へ出ると、黄色い傘へ雨が強く当たった。後ろから同僚が透明な傘を開く音がする。

同僚はいつもどおり別の話を始めた。寧々の断りは、二人の関係を切る刃物ではなく、ただ一本の傘の行き先を決めただけだった。並んで歩く必要も、言い訳を続ける必要もなかった。

駅までは本当に近い。三分もかからない。それでも寧々は急がず、歩幅を小さくした。右肩は濡れていなかった。

改札前で傘を閉じる。水滴を振ると、黄色が照明の下で一度だけ明るく揺れた。誰にも貸さなかった傘を、寧々は自分の腕へきちんと掛けた。