黒猫が持ってきた指輪
屋根の上に一夜だけ開く市場には、階段がなかった。サヤラは雨樋を伝い、二度滑り、ようやく黒猫の露店へ辿り着いた。
「失くしものを返してくれるって、本当?」
猫は片目を開けた。首から下げた札に、丸い字で規則が書いてある。
――返す代わりに、その品の持ち主があなたの中で最も愛している癖を一ついただきます。
サヤラが失くしたのは婚約指輪だった。菓子工房で粉袋を運んだとき、手袋ごと外した。その後は窯の灰も排水溝も探したが、見つからない。明日の朝、婚約者のベレンが遠征から戻る。
高価だからではない。二人で店を持つまで結婚式はしない、と決めた夜、ベレンが銅貨を溶かして作った歪な輪だった。内側には二人の店の名が、入りきらず途中まで刻まれている。
指輪がないと告げれば、ベレンは責めないだろう。だからこそ、彼が大切にしたものを失くした自分を許せなかった。
「彼が好きな私の癖なんて、分からない」
黒猫は尻尾で棚を叩いた。硝子箱の中に指輪が現れ、その横に、小麦粉まみれのサヤラが映る。生地をこねながら、調子外れの歌を口ずさんでいた。
ベレンはよく、窯の火を見ながらそれを聞いていた。上手だと言ったことは一度もない。ただ、サヤラが歌い始めると作業の手を止め、帰ってきた顔をした。
「これ?」
猫が頷く。
癖を渡せば、喉が潰れるわけではない。歌を知っていても、仕事中に自然とこぼれることがなくなるだけだという。小さなものに思えた。指輪と比べれば。
けれど、愛されていた自分の一部を、自分だけが価値のない癖だと決めてよいのだろうか。
夜風が瓦を撫でた。市場の向こうで鶏が一声鳴く。黒猫は前足で指輪を転がし、急かさず待っている。
サヤラは思い出した。喧嘩をして三日口をきかなかった朝、ベレンが工房の扉越しに言った言葉を。
――歌ってくれたら、帰っていいってことにする。
彼女は笑い、泣き、いつもの調子外れな旋律を最後まで歌った。黒猫の耳がぴくぴく動いた。
歌い終えると、胸のどこにも次の一節が浮かばなかった。
黒猫は満足そうに、銅の指輪を彼女の掌へ落とした。