黒馬から降りた花嫁候補

騎士団の婚約披露では、花嫁候補が黒馬で城門をくぐる。

ナナは鞍を見上げたまま、足を動かせなかった。幼い頃に馬から落ち、左脚を折った記憶が消えない。

騎士団長ガルムは、出発前の隊列を一瞥しただけで彼女の異変に気づいた。

「乗れないか」

「少し怖いだけです。皆が待っていますから」

彼は手綱を従者へ返した。

「下げろ」

式典官が慌てる。

「団長閣下、黒馬は騎士団の威信です」

ガルムは答えず、代わりに低い二輪馬車を指した。乗降口には小さな踏み台が置かれ、揺れを減らす厚い座布団まである。

ナナが以前、「高い馬車も怖いけれど、足が届くものなら平気」と話したのを覚えていたのだ。

「これなら?」

「たぶん。でも、今日は歩きたいです」

彼は一度だけ頷き、自分も馬から降りた。

「歩く」

沿道の貴族がざわめく。無口で冷たい団長が、式の形式を変えることなどないと思われていた。

城門前で、司祭が婚約宣言の巻物を開いた。

「ガルム騎士団長とナナ嬢は、本日より正式な婚約者として――」

「待ってください」

ナナは立ち止まる。

「今日は、候補として城へ入るだけと聞いていました。婚約するとは返事をしていません」

司祭が眉をひそめた。

「ここまで来て拒むのですか。団長の顔を潰しますよ」

ガルムの視線が司祭へ向く。

「潰れない」

「ですが、王家も承認を」

「本人はしていない」

ナナは彼を見る。望まれていることは知っている。だからこそ、断れば失望させるのが怖かった。

ガルムは巻物を閉じ、彼女へ尋ねた。

「門をくぐるか」

「はい。でも、婚約者ではなく客人として」

「分かった」

彼は城門の紋章旗から「婚約披露」の飾り布を外させた。

黒馬は空の鞍を載せたまま先へ進み、二人はその後ろを歩いた。遅いと囁かれても、ガルムは一度もナナを急かさない。彼女が立ち止まれば、同じ場所で黙って待った。

式典官が抗議する中、ガルムはナナの歩幅へ合わせる。

「宣言は延期する。彼女が自分で選ぶまで、『花嫁』と呼ぶな」