「お姉ちゃん」の当番
風音が風呂から上がると、家族チャットに未読が三十件たまっていた。
母 おばあちゃん、明日歯医者
弟 お姉ちゃん送迎お願い
叔母 お姉ちゃんは近くて助かるね
母 じゃあ九時に実家で
風音の返事は一度もない。それなのに当番だけが決まっていた。画面の中で、二十九歳の名前はどこにもなく、〈お姉ちゃん〉が便利な係名として行き来している。
風音は濡れた髪のまま、チャットへ打った。
風音 明日は行けません。私の確認なしに予定を決めないでください
すぐに母から電話が来た。
「家族のことなのに、そんな固い言い方しなくても」
「家族のことなら、私の予定も家族の予定に入れて」
「でも、お姉ちゃんでしょう」
風音は洗面台の曇った鏡を見た。弟が生まれた日から、その呼び名の後ろには、譲ること、待つこと、母を助けることが続いた。祖母の介護まで同じ順番で渡されている。
通話を切り、グループの表示名を〈お姉ちゃん〉から〈大庭風音〉へ変えた。続けて固定メッセージを一つ作る。
〈介護の依頼は本人名で、日時・内容を書き、返答を待つこと。未回答を了承としない。依頼を断った人を責める文も送らない〉
弟 じゃあ明日はどうする?
風音 あなたは午前休を取れる? 無理なら介護タクシーを調べる
弟 俺が行く。次から先に聞く
叔母からも〈私にできるのは電話だけ〉と届いた。風音はそれを小さい助けだと思った。送迎だけが介護ではない。祖母へ歯医者の時刻を伝える電話なら、叔母にもできる。役割を細かくすれば、〈お姉ちゃん〉へ一塊で落ちてこない。
母はしばらく何も書かなかった。やがて、〈風音、来月の眼科は付き添える日ある?〉と届いた。
風音はカレンダーを見て、第三金曜の午後だけなら、と返した。すぐに決めず、勤務表を確かめてから送った。
祖母を嫌いになったわけではない。弟を罰したいわけでもない。ただ、名前を消した役割として呼ばれるたび、風音自身の暮らしが見えなくなる。
鏡の曇りを手で拭くと、自分の顔が戻った。チャットの参加者一覧にも、〈大庭風音〉の四文字が残っていた。