いちばん低い棚

高瀬琴葉の図書館カードには、役に立つ本しか記録されていなかった。簿記、統計、プレゼンテーション、眠りの質を上げる方法。二度目の資格試験に落ちた日も、琴葉は次の参考書を借りに来た。合否通知を見た直後、友人から映画へ誘われたが、「勉強し直すから」と断った。映画の題名さえ確かめなかった。休んでいるあいだに誰かが先へ進む気がして、趣味の本は三年前に処分していた。合格した同僚の勉強時間を聞いてからは、帰宅後の三十分まで点数に換算した。眠ってしまえば怠けた日、散歩すれば遅れた日になる。試験に受かれば休めると思っていたのに、落ちるたび、休む権利まで次回へ繰り越された。

閉館の音楽が流れ始め、棚の前で立ち尽くしていると、小柄な司書が台車を押してきた。名札には八木原文とある。六十代くらいだった。

「お探しですか」

「今の私に必要な本を」

文は琴葉の腕に積まれた三冊を見た。

「必要じゃない本を、最後に借りたのはいつです?」

琴葉は質問の意味がわからなかった。必要でないなら借りる理由がない。

文は児童書の棚を指した。

「いちばん低い段から、背表紙を読まずに一冊抜いてください。今日の宿題」

「私、子どもはいません」

「棚も訊いてません」

文は台車を押して去った。

琴葉はしゃがんだ。低い棚には、動物や宇宙や料理の本が並んでいる。目を細め、文字を読まないように手を伸ばす。指に触れた一冊を抜くと、表紙には夜の海を飛ぶ魚が描かれていた。題名は『眠れない鯨の遠足』。

くだらない、と思った。こんなものを読んでも点数は上がらない。仕事の評価も変わらない。次の試験日まで百一日しかない。

貸出カウンターで、文は何も言わず、参考書三冊と鯨の本を順に読み取った。

琴葉は財布からカードを出しかけ、参考書の上に手を置いた。三冊あれば安心する。でも前回も、安心するために借り、読めない自分を責めた。

「これは、戻します」

琴葉は参考書を一冊、カウンターの返却箱へ入れた。代わりに、夜の海を飛ぶ鯨の本を鞄のいちばん上へしまった。