お忘れ物でございます
深夜宿《月止まり》の客室係イネスは、扉を三度叩いてからそう言った。
長期客のアルヴェンが食堂へ置いてきた革手袋を、わざわざ銀盆に載せて届けたのだ。彼女は枕の角を揃え、蝋燭の芯を切り、床に落ちた硬貨まで机へ戻す。噂好きの宿で、彼女自身の噂だけは一つもなかった。
「そこへ置いてくれ」
元冒険者のアルヴェンが答えた時、窓が内側へ開いた。
雨も風もない。
入ってきたのは、濡れた黒外套の男一人だった。
賞金首を狩る《夜勘定》の徴収人。男はアルヴェンの昔の名を呼び、毒塗りの短剣を抜く。客室係など最初から数にも入れていない。
イネスは銀盆を傾けた。
革手袋が床へ落ちる。
アルヴェンがそれを目で追い、顔を上げた時には、侵入者がいなくなっていた。開いた窓も閉じ、カーテンも元通り。室内には短剣一本さえ残っていない。
ただ、衣装鏡の扉だけが半寸開いていた。
その隙間に映ったものを、アルヴェンは見た。
銀盆の縁で短剣を弾き、回転した盆の裏へ身を隠すイネス。男の懐へ入り、客室鍵を鎖骨の窪みへ軽く当てる。巨体が糸の切れた人形のように崩れると、彼女は寝具用の運搬箱へ押し込み、廊下の配膳車へ載せた。
呼吸一つより短い。
鍵で命を閉じる技は、三十年前に各国の密偵を震え上がらせた伝説の暗殺者《合鍵》だけが使ったという。扉も鎧も人体も、彼女にとっては鍵穴の違う箱にすぎなかった。
イネスは窓枠の水滴を布で拭き、男の靴から落ちた泥を小瓶へ集める。短剣は鞘に戻し、侵入者の胸元へ。配膳車の札を「空室寝具」に裏返せば、すべてがただの夜仕事に見えた。
「お前、まさか……」
アルヴェンの声は掠れた。
イネスは答えず、床の革手袋を拾う。埃を払い、銀盆に戻して彼へ差し出した。その上には手袋ともう一つ、黒い徴収札が載っていた。今夜、彼の命と引き換えに持ち去られるはずだった札だ。
廊下では車輪が遠ざかる。
宿の誰も目を覚まさない。
イネスは寝台の皺を最後に一度直し、最初と変わらぬ無表情で銀盆を掲げた。
「お忘れ物でございます」