まだ来ない喜び
夜を延ばす金色の小鳥は、まだ起きていない喜びしか食べない。
一つ食べれば、死にかけた者の命が一時間だけ伸びる。
ミュリエが小鳥を窓辺へ置いたとき、母の指はもう冷たくなり始めていた。
「妹が着くまで、三時間」
雨で街道が崩れ、ディナの馬車は遅れている。母は何度も薄目を開けては、末娘の名を探した。
「三つ、喜びを選べ」
小鳥が嘴を鳴らす。
「未来から消えてもよいものを」
ミュリエは最初に、翌月の昇格を差し出した。
十二歳から帳場で働き、ようやく自分の印章を持てるはずだった。小鳥が胸から金の粒を啄むと、壁の蝋燭が一目盛りぶん戻った。
母の息が少し深くなる。
けれど街道から車輪の音はしない。
二つ目には、恋人と借りる予定だった部屋を差し出した。
南向きの窓、青い食器、二人で選んだ小さな寝台。実際の部屋はまだ空なのに、そこで笑う未来だけは何度も思い描いていた。
「それを食べたら、部屋を借りても嬉しくない?」
「出来事は起きるかもしれない。喜びだけが来ない」
小鳥が二粒目を飲み込む。
ミュリエは恋人の顔を思い浮かべた。好きだと思う。けれど新しい鍵を受け取る日の胸の弾みは、もうどこにもなかった。
二時間目の終わり、遠くで馬の嘶きがした。
だが橋の手前で止まったらしい。雨音に、御者の叫びが混じる。
母の唇が動いた。
「ディナに……渡すものが……」
枕の下には、三人で撮った影絵がある。母はそれを自分の手で末娘に渡したかったのだ。
あと一時間。
小鳥は最後の喜びを求めて、ミュリエの肩へ飛び移った。
残っている未来の中で、最も明るいものを彼女は知っていた。
いつか自分に子どもができたら、母に抱いてもらうこと。母が笑いながら「あなたにそっくり」と言うこと。叶わないと分かっているからこそ、捨てずにいた幼い未来だった。
「それは上等だ」
小鳥の目が光る。
「一時間には余るほど」
橋の向こうで馬車が再び動き出す音がした。
ミュリエは母の手を握る。母は目を開け、久しぶりに娘の名を正しく呼んだ。
その声を聞けた喜びまで代金に含まれる気がして、ミュリエは一瞬だけ手を引きかけた。
けれど廊下の先から、濡れた靴で走る足音が近づいてくる。
「食べて。全部」
金色の嘴が、最後の未来を啄んだ。
扉が開き、ディナが「お母さん」と叫ぶ。
母の顔に安堵が広がった。
ミュリエはその光景を、喜べないほど静かな胸で見届けた。