まだ間に合う
搭乗口B12
搭乗口B12の前で、沙月は景にパスポートケースを押しつけた。
「忘れ物」
「わざわざ空港まで?」
「共通の友達に頼まれただけ」
嘘だった。ケースは三日前から沙月の鞄にあり、宅配便ならとっくに届いていた。
搭乗締切まで十二分。景は来月からベルリンで働く。四年前に断った海外赴任と、同じ都市だった。
「まだ間に合うよ」
景が言った。
「何が」
「帰りの電車。ここから急げば」
「分かってる」
四年前、二人は同棲していた。景に辞令が出たとき、沙月は泣いて、怒って、最後には「行くなら別れる」と言った。景は赴任を断り、半年後、本当に別れた。
あの頃の沙月は、選んでもらうことが愛だと思っていた。今は違う。違うからこそ、好きだとは言えない。その言葉がまた、彼の足を止めるかもしれない。
「向こう、何年?」
「決まってない」
「そう」
「まだ間に合う」
二度目は、保安検査場の列を見ながら景が言った。あと八分。
「急いで」
「沙月が帰るのを見てから行く」
「そういうの、やめて」
「何が?」
「私を理由に、順番を変えるの」
景は黙った。沙月は言いすぎたと思ったが、謝れば別の言葉までこぼれそうで、唇を噛んだ。
場内放送が景の便名を呼んだ。最終案内だった。
「今度は行って」
「うん」
「振り返らないで」
「それ、命令?」
「お願い」
景は笑い、パスポートケースを上着の内側へ入れた。
「連絡してもいい?」
沙月のスマートフォンには、四年前のトーク履歴が残っている。削除できず、非表示にしただけだ。
「向こうで困ったときだけなら」
「厳しいな」
「元恋人だから」
「そうだね」
あと三分。景は保安検査場へ歩き出した。沙月は背中を止める言葉を、いくつも知っていた。好き。待つ。行かないで。どれも使わなかった。
「景」
それでも名前を呼ぶと、彼は振り返った。
「まだ間に合う」
三度目は沙月が言った。
「飛行機に。だから行って」
景は一度だけうなずき、今度こそゲートの向こうへ消えた。
沙月は非表示にしていたトークを戻した。入力欄に「着いたら教えて」と打つ。送信後、取り消しができる残り時間を示す表示が出た。
沙月は画面を伏せ、取消可能な時間が過ぎるまで、その場を動かなかった。