カーテンを三センチ

 宮坂はカーテンを三センチだけ開けていた。

 広く開けると向かいのビルから部屋が見える。閉めきると、壁の中へ置き去りにされた気がする。三センチの隙間なら、街灯の白い線だけが床へ届いた。

 転勤して五日目だった。段ボールは片づいたのに、部屋はまだ借り物の形をしている。エアコンの吹き出し口が一分ごとに向きを変え、ふう、とカーテンを押す。三センチが二センチになり、また戻る。窓の外では、小雨が金属の手すりを細かく鳴らしていた。

 眠ろうとすると、前の町で使っていた道の順番が浮かぶ。角のパン屋、信号の短い横断歩道、二十四時間の薬局。新しい町には、まだ目印が一つもない。

 午前三時前、道路へ黄色い作業灯が入ってきた。

 自動販売機の補充車だった。作業員が台車を下ろし、缶の入った箱を運ぶ。金属の扉が開き、中の円筒が低く回った。ごとん、ごとん、と缶が列へ収まり、機械の白い照明が作業員の手袋を照らした。

 宮坂の部屋からは顔が見えない。作業員も、上の窓にいる宮坂には気づかない。それでも三センチの隙間を、誰かの夜勤がゆっくり横切った。

 補充が終わると、作業員は一本だけ缶を買った。落下口で鈍い音がして、湯気のない温かさを確かめるように両手で包んだ。それから車へ戻り、黄色い灯りごと角を曲がった。

 車が去ったあとも、自動販売機の内部では冷却機が低く回っていた。昼には気づかない音が、濡れた道路へ細く続く。誰も立っていない場所でも、次に来る人のための温度だけは保たれていた。

 街灯の白い線だけが残る。エアコンがまたカーテンを押した。

 宮坂は地図アプリを開き、あの自動販売機へ小さな印をつけた。観光地でも店でもない。ただ、午前三時に缶が補充される場所だった。新しい町で最初に覚えた目印としては、それで十分だった。

 前の町にも、最初は名前のない場所があったはずだった。毎朝見る看板や、雨の日だけ水のたまる角を、暮らすうちに勝手な目印へ変えた。新しい町にも同じだけ時間が必要なのだろう。三センチの光は、覚えるには細くても、部屋の外が続いていると知るには十分だった。

 カーテンを閉めようとして、手を止める。三センチのまま、宮坂はベッドへ戻った。知らない町を今夜じゅう好きにならなくてもいい。白い線が床にあるあいだなら、この部屋で一人でも眠る側へ体を向けられた。