ゼロの居場所
学校給食の食材卸で働く風早理玖は、桁を間違えるのが怖くて、数字を三回読む癖があった。三千百八十二万円。声に出し、指で追い、最後にカンマを確認する。
市の冷凍食品入札で、営業部長から渡された金額も三千百八十二万円だった。理玖は入札書へ入力したつもりだったが、印刷された数字は三千百二十八万円。八と二の位置を入れ替えていた。
部長は紙を見るなり叫んだ。
「これじゃ本命の三千百五十万を下回るだろう!」
理玖の手が止まった。入札はまだ開かれていない。他社の金額を、なぜ部長が知っているのか。
部長はすぐに言い直した。「予想だ」と。しかし、訂正申請書には自分で『指定額を下回る入力ミスのため』と書き、十時十二分の時刻印を押した。理玖はその控えをファイルした。
開札では、部長の言ったとおり別会社が三千百五十万円で最安になった。自社は訂正後の三千百八十二万円。もう一社は三千百七十万円だった。
落札決裁の席で、市の担当者は「各社の見積努力の結果」と説明した。理玖は食材規格の説明員として同席していた。鞄の中には訂正申請書の控えがある。出せば会社には戻れない。出さなければ、子どもたちの給食費に談合分が乗る。
市長代理が決裁印を朱肉へ押しつけたとき、理玖は控えを机へ滑らせた。
「開札前に、うちの部長は落札額を知っていました」
『本命の三千百五十万を下回る』。理玖が余白に残していた聞き取りメモと、部長署名の訂正申請書。時刻は開札の四十八分前だった。
委員の一人が、理玖の聞き取りメモは後から作れると言った。理玖は入札書の訂正前スキャンを開いた。ファイルの注釈欄には、入力ミスを発見した十時九分に『部長、本命3150万を下回ると発言』と自動保存されている。三分後の訂正申請書にも同じ表現が残った。開札箱の封が切られたのは十一時だった。時間だけは、理玖の味方だった。
市長代理は印鑑を朱肉から上げたが、紙へは運ばなかった。赤い円だけが、朱肉の表面に深く残った。