ピアノ椅子の高さ

菫礼は、実家のピアノ椅子を一番低くした。

最後に座ったのは妹の珠希だったから、座面は高いままになっていた。

母から頼まれたのは、楽譜を一箱にまとめることだけだった。来週にはピアノを業者が引き取る。母は電話で、「珠希のコンクール曲は残して。菫礼の練習曲は適当に」と言った。

箱の横で、珠希が『月の光』の譜面をめくる。

「これ、私のじゃない」

「名前、珠希って書いてあるよ」

「お母さんが書き直したんだと思う」

表紙の白いシールを剥がすと、下から菫礼の字が現れた。小学六年生のとき、発表会で途中から弾けなくなった曲だ。その翌年、珠希が同じ曲で賞を取った。

「持って帰る?」

珠希が尋ねる。

「いらない」

「じゃあ私が」

「どうして」

「捨てたら、私が勝ったままみたいだから」

菫礼は笑いそうになったが、笑えなかった。

家には、珠希の金色のトロフィーが三つ並んでいた。菫礼の発表会写真は、いつからかその後ろへ隠れていた。けれど、勝ったままという言葉は、珠希の口にも長く残っていたらしい。

「私、あの曲が嫌いだった」

菫礼は言った。

「知ってる。私も」

「賞を取ったのに?」

「取ったから。お母さん、菫礼にもできなかったのにって、みんなの前で言った」

二人は床に座り、楽譜を一冊ずつ仕分けた。残す、捨てる、譲る。母の指示を書いたメモは、箱の蓋の下へ裏返した。

古いメトロノームが出てきた。針の重りには、母の油性ペンで二本の線がある。上に「珠希」、下に「菫礼」。同じ速さを弾いても、間違いの数で椅子の高さまで変えられた気がした。

珠希が重りを外す。

「これだけ持っていっていい?」

「線、消すなら」

消毒用の布でこすると、名前は灰色ににじみ、やがて読めなくなった。

菫礼は『月の光』を譲渡箱へ入れた。珠希は止めなかった。

「今度、ピアノのない店で会おう」

「カラオケ?」

「音程まで比べる気?」

今度は二人とも笑った。

箱を閉じる前に、菫礼は椅子のねじを回した。高くも低くもない位置で止める。

誰が正しく座るか決めないまま、二人で蓋をした。