プリンは半分にしない
汐路史帆が喫茶「白鳥」に入ると、振り子時計は閉店十五分前を指していた。
今月末で店を閉じるという貼り紙の下に、「本日のプリン、あと一つ」と小さく書かれている。史帆はそれを見て席に着いた。
「半分だけ、できますか」
注文を取りに来た店主は、伝票の鉛筆を止めた。史帆はすぐに言い足した。
「量が多いので。残すのも悪いし」
本当は多くない。脚のついた銀色の器に収まる、昔ながらの固いプリンだ。以前の恋人に「甘いものを食べる顔が油断している」と笑われてから、史帆はデザートを頼むとき、誰も聞いていない理由を添える癖がついた。別れて一年たつのに、食事記録のアプリは毎晩、赤い数字で彼女を叱った。
店主はすぐに伝票へ書かず、ガラスケースの最後のプリンを器ごと持ち上げた。丸い形を崩さないまま、史帆の返事を待っている。
半分にしてほしいのは量のためではない。食べたい自分を、最初から半人分にしておきたいだけだった。
「そのままでお願いします」
店主はそこで初めて、伝票に「プリン 一」と書いた。
やがて運ばれてきた器には、切り分けられていない丸いプリンが載っていた。琥珀色のカラメルが縁から静かに落ち、天井灯を細く映している。店主はスプーンを右側へ置き、伝票を裏返した。全部食べろとも、残していいとも言わなかった。
史帆は最初の一口を小さく取った。卵の密度が舌に残る。二口目は少し大きくした。店内では椅子を引く音が一つずつ増え、壁の古本を照らす灯りが奥から消えていく。
食べ終えるころ、器の底にはカラメルが薄い輪になっていた。誰かに褒められるほどきれいでも、責められるほど汚くもない。ただ、一人分のプリンを一人で食べた跡だった。
会計で店主は、レシートの品名を省略しなかった。「プリン 一個」。その下に閉店時刻が印字されている。史帆が財布へしまうまで、折り曲げずに差し出していた。
席を離れる前、史帆は食事記録のアプリを開いた。今日の欄へ入力する代わりに、通知設定を切る。続けて、ホーム画面から削除した。身体が急に変わるわけではない。明日また不安になるかもしれない。それでも、今夜の一個まで、過去の声に採点させる必要はなかった。
店主が入口の鍵へ手をかける。
史帆は空の器を一度見て、「ごちそうさまでした」とだけ言った。謝らずに甘いものを食べ終えた自分の声は、思ったより普通で、だからこそ頼もしかった。