ベランダに咲いた指輪
曽根崎亜子がなくした婚約指輪は、三日後、ベランダの植木鉢から芽を出した。
銀色の茎の先に、小さな白い花。その中心へ、指輪が雌しべのようにはまっている。
怪異物件を扱う〈花房住建〉へ写真を見せると、花房鈴真は黒い園芸用エプロンを着たまま現れた。腰には銀の剪定鋏を下げている。
「咲いたものは、戻りません」
「そこにあるんですけど」
「元のままでは、という意味です」
鈴真によれば、その部屋のベランダは「失くしたかった物」を花にする。摘めば品物は戻るが、なぜ手放したかったのかを忘れるという。
亜子は明後日、婚約者の家族と食事をする。指輪がないと知られたくなかった。
「摘んでください」
「作業前に、紛失状況を」
「洗い物のとき外して、そのまま」
鈴真は返事をせず、土の上へしゃがんだ。剪定鋏の先で、鉢の縁に残る浅い傷を示す。指輪を置いた跡ではなく、金属を押しつけた跡だった。
「風に落としてもらおうとしましたね」
亜子は唇を結んだ。婚約者は、結婚後に住む街も、亜子が仕事を辞める時期も、「二人のため」と決めていた。嫌だと言えないまま指輪を外し、せめて自分の手では捨てたくなくて、鉢の縁へ置いた。
「私、結婚したくないんでしょうか」
「花に人生相談をさせないでください」
鈴真は冷たく言った。けれど剪定鋏を開かず、強い風から花を守る透明な板をベランダへ取りつけた。
「分からないなら、分からないと話す。指輪がなければ話せない相手なら、摘んでも同じです」
「でも、これを見たら怒られます」
「見せる必要はありません。隠す必要もない。話す場所は、あなたが選べます」
鈴真は小さな植木鉢と、蓋つきの箱を置いた。花ごと移せば三十日は枯れず、その間は指輪も戻らないという。
亜子は食事会を延期し、婚約者へ『決められたことを、決めたふりで受け入れていた。話したい』と送った。返信を待つ手は震えたが、薬指を隠さなかった。
帰り際、コートの袖が花の棘に引っかかった。鈴真の剪定鋏が、素早く棘だけを切る。花には触れない。
「咲いたものは、戻りません」
「やっぱり忘れるんですね」
「いいえ」
鈴真は鉢を箱へ納め、亜子に抱かせた。
「咲いてしまった迷いを、咲く前の沈黙へ戻す必要はないということです」