ベースだけが帰らない

解散ライブのリハーサルで、弓削沙都は床からベースの音を聞いた。

アンプは切れている。〈低温花火〉のベーシスト、泊瀬は三か月前から失踪中で、今夜の最後の一曲も打ち込みで演奏する予定だった。それなのに舞台中央へ立つと、靴底の下で低いミが脈打つ。

曲名は〈帰港〉。泊瀬が消える前に残した唯一のデータだった。

「帰ってきて」

イントロで灯が歌うと、客席のペンライトが青く揺れた。ファンは泊瀬への呼びかけだと思っている。灯もそう思いたかった。だが彼が最後に電話してきた夜、灯は着信を無視した。解散を主張する泊瀬を、臆病者だと責めた直後だったからだ。

Aメロに入る。打ち込みのベースは譜面どおりなのに、床の低音だけが半拍遅れる。四小節ごとに音程が変わり、ミ、ラ、レ、ソと下降した。音響主任が「建物の共振だ」と言う。だが泊瀬は、会場地下の構造を熟知していた。学生時代、このライブハウスで配線工事のアルバイトをしていたからだ。

「帰ってきて」

サビで灯はベース音の間隔を数えた。長、短、短、長。モールス信号に置き換えると、〈B2・北・冷蔵庫〉になる。

舞台袖の代表がイヤーモニター越しに「歌え」と怒鳴った。泊瀬が失踪した日、最後に会っていたのは代表だ。未払い報酬の帳簿を持ち出した泊瀬を、会社は「金を盗んで逃げた」と発表していた。

灯は曲を止めなかった。ドラムへ合図し、テンポを半分に落とす。低音が会場の床を長く震わせる。観客の足元まで伝わり、誰もが異常に気づいた。サビの最後、消防設備の振動センサーが反応し、地下二階の冷蔵倉庫が画面に表示される。

警備員が走る。代表は出口へ向かう。

最後の一音だけ、打ち込みではなく、生の弦を指で離す音がした。泊瀬のベースは地下倉庫から見つかった。ケースの内側には帳簿と、彼の血で汚れた社員証。さらに奥の閉鎖区画から、毛布に包まれた遺体が運び出された。

灯は泣かなかった。音が消えるまで、代表の逃げた扉を見ていた。

「帰ってきて」

それは泊瀬にステージへ戻ってほしいという願いではない。盗人の汚名を着せられた彼の名前を、真実の側へ帰すための歌だった。