ペンネームのない原稿

新人賞の最終選考会に、宅配便の制服を着た若い男が原稿を届けに来た。受付票には八神惟真とある。編集部では聞いたことのない名だった。

担当編集者は封筒を開き、冒頭の一ページだけを読んだ。

「今どき手書き? しかも地味な家族小説。持ち込みは予約制だよ」

「編集長から、会議前に直接渡すように言われました」

「その手の嘘は毎月聞く」

男は反論せず、雨で濡れた袖を絞った。

聞けば、入口で荷物を落とした配達員を手伝い、そのまま予備の上着を借りたらしい。だが担当編集者は説明を最後まで聞かず、靴の泥と制服だけで相手を決めた。彼は候補作の一冊を持ち上げ、「本を売るには物語より肩書が必要だ」と若手へ講釈した。男はその本の奥付を見て、そこに印刷された推薦文を指でなぞった。推薦者は、夜城トウマだった。

新人編集者が原稿を拾おうとしたが、担当は「売れない文章に情をかけるな」と足で箱を押した。男はその新人の名札を覚えるように読み、短く礼を言った。私はアルバイトだったので口を挟めなかったが、原稿の一行目には覚えがあった。高校時代、何度も読み返した小説と同じ、静かな呼吸がある。

担当編集者は原稿を返さず、机の端の廃棄箱へ落とした。

「才能のない人ほど、編集長の名前を使う。配達に戻った方がいい」

男は箱を見つめたあと、胸ポケットから古い万年筆を出した。軸には、出版社の創業五十周年記念章が刻まれている。

「では、選考会で返してもらいます」

会議室では、候補作の売り方ばかりが議論されていた。担当編集者は『泣ける』『映像向き』と付箋を並べ、文学性を語る役員を古いと笑った。

そこへ編集長が駆け込み、廃棄箱から拾った原稿を両手で抱えてきた。

「なぜ先生の新作がここにある!」

会議室が凍りつく。編集長は、宅配便の上着を脱いだ男へ深く頭を下げた。

「八神惟真先生。二千万部作家・夜城トウマの本名です。本日、当社との全作品契約更新についてご判断をいただきます」

八神は廃棄箱を指し、万年筆の蓋を外した。

「判断材料なら、もう十分そろっています」