ラベンダーを追放した午後
アンジェがマグナス公爵の屋敷へ来た初日、客間には紫の花が山ほど飾られていた。
香りを嗅いだ途端、胃が持ち上がった。けれど歓迎の花だと思えば、嫌だとは言えない。彼女は窓辺へ逃げ、息を整えた。
翌朝、屋敷からラベンダーが一本残らず消えていた。
「使用人が気を利かせたのでしょう」
そう思っていたが、侍女は首を振った。
「閣下のご命令です。奥様候補が窓を三度開けた、と」
アンジェは驚いた。香りが苦手だと口にしていない。窓を開ける回数だけで気づいたらしい。
その日の午後、婚約承認の茶会が開かれた。マグナスは反乱貴族の嘆願を一行で却下し、税を誤魔化した叔父をその場で拘束させた男だ。親族すら「北壁」と呼び、近づきたがらない。
ところがアンジェの席に置かれた茶だけ、花の香りがしなかった。薄い柑橘と、彼女が好む苦めの茶葉。砂糖壺も手の届かない側にある。甘い飲み物が苦手だと、以前一口残しただけなのに。
「贅沢なこと」
伯母が聞こえよがしに言った。
「公爵家へ嫁ぐなら、少しくらい我慢を覚えなさい。女主人は客の好みに合わせるものよ」
アンジェは反射的に砂糖壺へ手を伸ばした。自分の茶を甘くして見せれば、丸く収まる。
だがマグナスが壺を取り上げた。
「彼女は要らないと言っている」
「何も仰っていませんわ」
「手が止まった」
彼は壺を自分の前へ置くと、伯母にだけ冷たい視線を向けた。
続いて王宮侍従が婚約契約を読み上げる。条項には、アンジェが公爵家の全社交行事を主催し、欠席しないこととあった。
「署名を」と促され、アンジェの指が震えた。人混みも強い香りも苦手だが、婚約を断れば実家は困窮する。
マグナスは契約書を閉じた。
「この条項は削除する」
「公爵夫人の義務です」と伯母が食い下がる。
「義務は私が決める。だが彼女の限界は、彼女が決める」
彼は羽根ペンをアンジェの前に置いた。ただし、署名欄ではなく余白へ向けて。
「出席したい行事だけ書け。ひとつもなければ、白紙でいい」
満座の視線が集まる中、アンジェは初めて、自分の予定を自分の字で選び始めた。