レモンの端を残す
鳥飼茉莉の口座へ、初めて「原稿料」という名目で十二万四千円が振り込まれた。
会社を辞めて四か月。退職金は家賃と機材で減り、通帳を見るたび、自分の選択がただの無職に変わる気がした。昼は似顔絵、夜は書籍の挿絵を描き、足りない分は貯金から出した。両親には在宅勤務へ変わったとだけ話している。絵の仕事で暮らしたいと言えば、「若いうちに正社員へ戻れ」と言われるのが分かっていた。
給料日と呼べる日ではない。それでも茉莉は、振込通知を見た帰りにレモンのパウンドケーキを一本買った。細長い箱には、黄色い砂糖漬けが一列に並んでいた。
机の上で一切れ切ると、レモンの香りが画材のにおいを押しのけた。表面の糖衣は歯に薄く割れ、中の生地はしっとり重かった。
茉莉は真ん中から食べた。
いつもなら、固い端を先に片づけ、柔らかな中央を最後のご褒美にする。けれど今夜は、いちばんおいしそうな場所を最初に切った。仕事にしてから、絵は先に苦しい部分を済ませるものになっていた。好きな色を塗る時間まで、請求書や修正依頼のあとへ追いやっていた。
二切れ目は切らなかった。売上を大きく見せるために一晩で成功を祝うより、一本を何日にも分けるほうが、今の働き方に似合っていた。一本買ったからといって、今日すべて食べる必要はない。今回入ったお金が、来月も入る保証はない。それでも、一度稼げた事実まで小さくする必要もなかった。
茉莉はケーキの端を三センチだけ切り、紙に包んだ。明日の朝の分だ。残りは薄く切って冷凍した。
そのあと、家計簿の収入欄へ初めて「イラストレーター」と入力した。仮、も、副業、もつけなかった。両親への電話はまだできない。代わりに、実家へ送る年賀状の仕事欄へ同じ言葉を書くことにした。
机には、糖衣の欠片が一つ残っていた。茉莉は指で拾い、舌に載せた。
酸っぱさはすぐ消え、甘さだけが少し長く残った。明日の端があるなら、今日の真ん中を選んでも仕事は続いていく。