一万枚目の挿絵
蔵前森寿貴は、姫小松澄乃の画材を食卓から払いのけた。
「子どもの落書きと何が違う。家にいるなら、俺が帰る前に片づけろ。誰のおかげで飯が食えてる」
床へ落ちた色鉛筆を、澄乃は一本ずつ拾った。
彼女は娘が眠ったあと、児童向け教材の挿絵を描いていた。最初は一枚五百円。やがて動物の表情や、文字を読めない子にも伝わる絵が評判になり、仕事は出版社から直接届くようになった。
寿貴は売上を聞こうともせず、「主婦の小遣い」と決めつけた。
一年後、寿貴の勤務する玩具会社で、新しい知育シリーズの発表会が開かれた。海外三十か国へ輸出する大型企画で、キャラクターデザイナーが壇上へ呼ばれる。
「姫小松澄乃先生です」
大型画面に、澄乃が十年間描きためた一万枚の絵が流れた。教材、絵本、アニメ、玩具。彼女が匿名で育てたキャラクターは累計五百万部を超え、商標権も著作権も本人が保有していた。
玩具会社との契約一時金は一億円。売上歩合は別に支払われる。
寿貴は同僚へ言った。
「妻の絵です。家庭で僕が意見を出して、ここまで育てました」
澄乃は発表用タブレットを操作した。制作記録には、寿貴の“意見”も音声で残っていた。
『こんな絵、誰も金を払わない』
『画材代は食費から引くぞ』
会場が静まる。社長は、寿貴が社内審査で澄乃の企画を一度却下し、別の社員の名で再提出しようとした履歴まで確認していた。寿貴は商品企画から外され、調査対象になった。
その夜、澄乃は新しいアトリエで離婚届を差し出した。
「一億円が入ったから、俺を捨てるのか」
「一枚五百円だったころから、あなたは私を捨てていたの。価値がないと言い続けることで」
アトリエの家賃、娘の学費、生活費は著作権収入だけで十分だった。顧問税理士と保育スタッフも契約済みである。
出版社から、一万一枚目となる新シリーズの正式発注が届く。
澄乃が離婚届を寿貴の前へ置き、画面に〈世界三十か国・刊行決定〉と表示された瞬間、落書きと踏みつけられた線は世界へ伸び、夫婦の線だけがそこで途切れた。