一両目に月を置く
川を渡るときだけ、月が一両目の窓へ入った。
紫織の膝には、赤い書き込みの入った原稿がある。新人賞の最終選考には残らなかった。返送された紙の角は少し折れ、講評には「静かだが、動きに乏しい」とあった。
終電は長い橋へ差しかかる。車輪が鉄の継ぎ目を規則正しくたたき、天井の照明がわずかに震える。空調の風で原稿の一枚目が持ち上がり、紫織は指で押さえた。窓の外では黒い川が流れ、月だけが車内のガラスを滑っている。
向かいには、黒いケースを抱えた女性が座っていた。ケースから出した楽譜へ鉛筆で小さく印をつけている。トンネルへ入るたび手を止め、明るい区間でまた書く。紫織が原稿をめくると、少し遅れて相手もページをめくった。
紙の音が二度、車輪の間へ挟まる。橋桁の影が一定の間隔で窓を横切り、そのたび二人の紙が白くなったり灰色になったりした。
女性はこちらを見ない。紫織も楽譜の内容は読めない。ただ、同じ終電で、明日のためか今日のためか分からない紙を直している人がいた。
次の橋で、月がまた窓へ入った。黒いケースの金具が一瞬光る。女性は鉛筆を置き、楽譜の一か所を指でゆっくりたどった。音は鳴らない。それでも指先だけが、そこにある旋律を確かめているようだった。
紫織は講評を裏返した。今すぐ書き直すつもりはない。静かすぎると言われた作品を、騒がしく直せばよいとも思えなかった。けれど捨てるには、まだ紙が温かかった。
女性が一駅先で降りた。立ち上がるとケースが座席へ小さなへこみを残し、ドアが閉じる前に楽譜の端が一度だけ風で揺れた。
終電は再び橋へ出た。今度、月は紫織の原稿の上へ落ちた。赤い文字も、消し跡も、薄い光の下では同じ紙の凹凸に見えた。
紫織は原稿を封筒へ戻さず、一枚目だけ読み返した。結末までは進まない。今夜は最初の三行でやめてもいい。
車輪は同じ速さで回り続ける。月が窓から外れても、紙の白さは残った。誰かに読まれない夜くらい、自分一人で自分の文章のそばにいてやれそうだった。