一人分の鍋

卓上コンロの火は、鍋の底だけを小さく照らしていた。

八代瑞希が白菜を入れ、久我創太が肉を入れ、三輪小春が灰汁を取る。入居した最初の冬に決めた役割を、最後の夜まで誰も変えなかった。

「大阪、何時に出るの」

小春が聞く。

「明日の昼。劇団の寮、六畳に四人」

創太は笑った。

「役者より共同生活の経験が評価された」

「それ、褒められてないよ」

瑞希は黙って豆腐を三つに切った。彼女は四月から地元の信用金庫に入る。演劇の照明会社を受けていたことは、二人しか知らない。

「瑞希、本当に帰るんだ」

創太が言う。

「親が安心するし」

「瑞希は?」

「何が」

「安心する?」

「面接みたいな質問やめて」

小春は灰汁をすくう手を止めた。

「私は卒業しない」

二人の箸が同時に止まる。

「単位?」

「休学。弟が高校出るまで、夜の配送で働く。学費、一回止める」

小春はいつも、三人の中で最初に卒業するはずだった。奨学金の返済表を冷蔵庫へ貼り、朝六時から講義へ行き、将来は児童福祉司になると言っていた。

「だったら、うちに――」

瑞希が言いかける。

「言わないで。助けてもらったら、ここを出られなくなる」

鍋が煮えすぎ、豆腐の角が崩れた。創太は火を弱める。

「俺たち、別々になるってだけだろ。終わるわけじゃ」

「その台詞、稽古で何回言った?」

瑞希が聞く。

「百回」

「一回も信じてなかったでしょ」

創太は答えなかった。

食べ終えたあと、三人は鍋を洗った。大きな土鍋は誰の新居にも置けない。創太の寮は火気厳禁、瑞希の実家には鍋が余っている。小春が借りる配送所近くの部屋には、コンロが一口しかない。

棚の奥から、瑞希が小さな一人用鍋を取り出した。三人が風邪を引いたとき、順番に雑炊を作ったものだ。

「これは?」

創太が聞く。

誰も手を上げなかった。

大鍋は粗大ごみへ出し、一人用だけを流し台に残した。三人が出ていったあと、乾いた鍋の底には、丸い火の跡が一つだけ残る。誰かを待つには小さすぎ、ひとりで使うには思い出が多すぎる大きさだった。