一本だけの串かつ

高槻泰成は、ギターケースを背負ったまま店へ入った。

「終わりました」

「ライブが?」

「バンドが」

 明日、名古屋へ戻る。父の印刷会社で働くことになっている。二十九歳までと決めて上京し、二十九歳の最後の夜まで続けた。客が十人を超えないライブも、再生数が三桁で止まる曲も、嫌いにはなれなかった。

 ただ、好きだけでは家賃を払えなかった。今夜の解散ライブで、メンバーは「またいつか」と言った。泰成だけは言えなかった。またを口にすれば、戻れない自分が裏切り者になる気がした。

 店に客は彼一人だった。いつもの盛り合わせではなく、豚の串かつを一本だけ頼んだ。

 衣が油の中で細かく鳴り、揚がった串からパン粉と豚脂の匂いが立つ。店主がソース壺を置くと、黒い表面から香辛料の酸っぱい香りが上がった。

「二度づけ、今日もなしですか」

「最後でもなしだ」

 泰成は一本を沈め、たっぷりソースをまとわせた。噛むと衣が耳の近くで砕け、熱い脂が舌へ広がる。

 ギターケースのポケットには、解散ライブで演奏しなかった新曲の録音が入っている。完成しなかったから、メンバーへも聞かせていない。帰りの新幹線で消すつもりだった。

 泰成はグループチャットを開き、音源を添付した。送信時刻を明日の午前九時に設定する。文は「最後まで作れなかった。続き、誰かやる?」だけにした。自分が戻る約束ではない。誰かを縛る言葉でもない。

 明日から印刷機の音の中で働く。音楽を続けるかは分からない。それでも、未完成をなかったことにはしない。

父の会社では、朝八時から折り機を回す。泰成は作業服も安全靴も送ってあり、逃げ道はもう少ない。それでもギターを売る手続きだけはしていなかった。持ち帰れば未練だと笑われる気がして、宅配の伝票を何度も書き直した。明日はケースごと新幹線へ載せる。弾く日が来なくても、手放すかどうかを、解散した今夜の勢いだけでは決めない。

 串の先に残った衣を歯で外すと、冷え始めたソースの奥から、豚肉の温かさがもう一度だけ戻った。