一本で持つと言うな
港を離れるフェリーの後部甲板で、赤い作業手袋が久世湊斗の胸へ投げられた。
「一本で持つ。補助索は外せ」
甲板長である父の声は、前の人生と一字も違わなかった。
湊斗は十九歳だったあの日へ、事故の三十秒前だけ戻ってきた。以前は赤い手袋をはめ、命令どおり補助索を外した。劣化した主索は張力に耐えられず破断し、鞭のように跳ね返って父の胸を打った。
会社は「予測不能」と処理した。だが主索の交換期限は半年も過ぎ、運航部長が費用を削った記録を、湊斗は父の遺品から見つけていた。
二度目の甲板で、湊斗は手袋をはめなかった。
「一本では持ちません。補助索も外さない」
「新人が口答えするな!」
父が前と同じように怒鳴る。湊斗は逃げず、主索が通る危険区域へ黄色い立入鎖を掛けた。
「全員、白線の内側へ! 主索が切れます!」
運航部長が船橋から顔を出す。
「出港が遅れる。外せ!」
「なら部長が、ここで持ってください」
湊斗は赤い手袋を足元へ置いた。索が跳ねる範囲を白墨で大きく囲み、見習いたちまで船室へ下げる。部長は降りてこない。それが答えだった。
船体が潮に押され、主索が唸る。一本で持つと言った父の顔から血の気が引いた。
ぶつん、と低い音がした。
太い索が中央から裂け、甲板をなぎ払う勢いで跳ねた。しかし黄色い鎖の内側には誰もいない。索は無人の係船機を砕き、海へ落ちた。補助索が船体をつなぎ止める。
父は立ったままだった。生きていた。
「どうして……」
「交換期限を見ました。今度は、見なかったことにしません」
湊斗は切断面を撮影し、期限票と一緒に全乗組員へ送信した。
午前六時四十二分。前の人生では、船内放送が《負傷者一名、医師は後部甲板へ》と繰り返した時刻。
スピーカーが鳴る。
湊斗は身構えた。
《主索破断。負傷者なし。安全確認のため出港を中止します》
父が赤い手袋を拾い、湊斗へではなく運航部長の足元へ投げ返した。
「次からは、息子の判断を正式手順にする」
前には一度も認めてくれなかった声だった。