一歩も動かぬ盾
帝国最強の槌使いエルゴンが処刑台へ上がると、観客は罪人ではなく彼に歓声を送った。
罪人ノクサは、国境守備隊の盾兵だった。撤退命令に背き、避難民の列が渡り終えるまで橋に残った。そのせいで将軍の到着が遅れた――軍法会議は、そう記録した。
処刑台の脇には、その軍法会議の記録板が掲げられている。だが「避難民二千四百名」という一行だけ、黒い塗料で消されていた。雨で塗料が垂れ、下の数字が少し透けている。
「盾も鎧もないぞ。今度は何を守る?」
エルゴンが笑う。
ノクサは裸足で、手首を前に縛られていた。返事をしない。彼女は昔から口数が少なく、処刑宣告を受けたときも「橋は渡り切った」とだけ言った。
執行官が旗を振る。
エルゴンの戦槌が横薙ぎに振られた。巨人の肋骨を折った一撃が、ノクサの脇腹を捉える。
処刑台の柵が吹き飛び、観客席へ木片が降った。
だがノクサはその場にいた。
両足を肩幅に開き、縛られた手を腹の前に置いている。打たれる前と同じ姿勢だ。服の布さえ裂けていない。
エルゴンは槌頭を見た。そこには人の体へ当てたとは思えないへこみがあった。
「結界を仕込んだな」
執行官が罪人の足元を調べる。魔力反応はない。観客のざわめきに、避難民だった者たちの声が混じり始めた。
「あの人だ。橋に残った盾兵だ」
「俺たちを逃がした……」
声を上げた男は、幼い娘を肩に抱いていた。娘の首には、橋を渡る順番を示した木札が下がっている。二千三百九十八番。塗り潰された記録より、木札のほうが雄弁だった。
エルゴンは聞こえないふりをして、槌を頭上へ掲げた。
「地砕きだ。台ごと沈める」
処刑場の石床に、赤い亀裂が走る。エルゴンが全身で振り下ろすと、衝撃が円形に広がり、特等席の椅子まで跳ね上がった。濃い砂煙が人影を呑む。
静寂の中、エルゴンだけが槌の手応えを知っていた。
岩盤を叩いた感触ではない。
城壁そのものに拒まれた感触だった。
煙が流れる。
ノクサは同じ足幅、同じ手の位置で立っていた。彼女の周囲だけ、足元の石が一枚残っている。
「何を守っている」
エルゴンが初めて、笑わずに尋ねた。
ノクサは観客席の避難民を見た。
「証言」
短い答えと同時に、戦槌の柄まで亀裂が走った。
帝国最強と呼ばれた槌は、エルゴンの両手の中で砕けた。