一秒パン
一法師茉子のパン屋でいちばん安い商品は、一秒だった。親指ほどの丸パンで、形は不揃い、翌朝には石のように硬くなる。それでも学校帰りの子どもたちは、手首を一度だけ光らせて買っていった。
食料の値段が寿命表示になってから、焼きたてのパンは富裕層の嗜好品になった。粉を挽く時間、発酵を待つ時間、職人が成形する時間まで価格に換算される。父から継いだ店も、合成食の自販機に客を奪われた。
茉子は製粉所で捨てられる欠けた麦を集め、発酵を短くし、夜中に一人で焼いた。利益はない。むしろ一個売るたび、足りない製造時間を店主である茉子の口座が補填した。百個売れば、彼女の寿命が二分ほど減る。
価格監査AIはそれを不当廉売と判定した。
《市場の時間価値を破壊しています。是正しなければ営業停止》
役所の職員は、最低価格を十四秒に上げるよう勧めた。茉子は試しに値札を書き換えた。翌日、いつも来る兄妹は店の前で残高を確かめ、何も買わずに帰った。弟が姉へ「水を飲めば平気」と言う声が聞こえた。
茉子は値札を一秒に戻した。営業停止の日、店の前には長い列ができた。子どもだけではない。通勤途中の会社員、近所の老人、昔の常連が一人ずつ手首を端末へかざした。パンを買わず、一秒だけ店へ送って帰っていく。
「一秒なら、惜しくないから」
千人で十六分四十秒。万人で二時間四六分四十秒。監査AIは、小口出資者が規定数を超えたため、店を共同事業体として再分類した。営業停止は自動解除された。
茉子は翌朝も丸パンを焼いた。今度は一個だけ、二秒のパンを棚に置いた。少し大きく、中に干し葡萄が一粒入っている。子どもたちは特別な日にそれを選んだ。
一秒は一人では小さすぎる。だが誰かの朝を支えるには、十分な通貨になることがあった。
古い看板には父の字で《時間をかけて焼いています》と残っていた。茉子はその下へ小さく《時間を分けて食べています》と書き足した。店を救ったのは大口の投資家ではなく、名前も知らない人々の一秒だった。