七時の卵焼き
朝七時、詩乃は卵を溶く音で目を覚ました。
帰省した夜、母には「明日は寝かせて」と言った。けれど実家では、眠っている娘の都合より、焼きたての卵焼きの時刻が優先される。
「詩乃ちゃん、冷めるわよ」
廊下から二度呼ばれた。三度目は襖が十センチ開いた。
「起きてる」
「じゃあ早く。お父さんも待ってる」
詩乃は時計を見た。平日は六時半に起きる。休日まで七時に食卓へ集合する理由はなかった。
九時まで布団にいた。
台所へ行くと、父は散歩へ出たあとで、母だけが新聞の折り込みを読んでいた。皿の卵焼きは表面が乾き、味噌汁には薄い膜が張っている。
「せっかく作ったのに」
「ありがとう。今食べる」
「温め直す?」
「このままでいい」
詩乃が箸を取ると、母は向かいに座った。
「で、会社はいつまで続けるの。あの仕事、夜も遅いんでしょう。こっちへ戻れば――」
「朝ごはんのときは、仕事と結婚の話をしない」
母は目を丸くした。「何よ、急に」
「帰ってくると、私は質問に答えるために座らされてるみたいになるから」
「親が聞かなかったら、誰が聞くの」
「私が話したくなったら、私から話す」
卵焼きの中心は、まだ少し温かかった。甘さは昔と同じだったが、詩乃は端からではなく真ん中を箸で割った。
「次に泊まるとき、朝ごはんは十時にして。七時なら私は食べない」
「そんな時間、朝ごはんじゃないわ」
「じゃあ、外で食べる」
母は折り込み広告をめくった。しばらくして、赤いペンで喫茶店のモーニングに丸をつける。
「ここ、十時半までだって」
それが譲歩なのか、皮肉なのか、詩乃には分からなかった。分からないままでよかった。
散歩から戻った父が、遅い朝食を見て『寝坊か』と笑った。母は広告から目を上げず、『今日は十時が朝なの』と言った。詩乃の決めたことを賛成したわけではない。ただ、父の冗談に同調しなかった。その小さな違いを、詩乃は冷めた味噌汁と一緒に飲み込んだ。
食べ終えると、詩乃は流しへ皿を運び、壁の家族用目覚まし時計のアラームを切った。次に鳴らす時刻は、まだ誰にも決めさせなかった。