三回目の大丈夫
父が倒れてから、娘は一日に何度も「大丈夫」と言った。
会社からの電話へ。
手伝おうかと聞く弟へ。
着替えを失敗して謝る父へ。
「大丈夫。私がやるから」
ある夜、三度目の「大丈夫」を言った直後、台所の窓から黒い服の少年が入ってきた。左耳だけが欠けたように小さい。
十年前、自動販売機の裏で凍えていた片耳の黒猫を、娘は一晩だけ保護した。翌朝には消えていた猫だった。
「三度目の大丈夫のあと、一つだけ代われます」
少年は言った。
それが恩返しの決まりらしい。
娘は洗濯を頼んだ。
少年は洗剤を入れすぎ、床を泡だらけにした。
次の日は夕食を頼んだ。魚を丸ごと皿へ載せ、父に笑われた。
役に立たないと思った。
三日目、父が夜中に呼んだ。
着替えたいと言う。
娘は仕事の資料を作っていたが、
「大丈夫」
と立ち上がる。
弟からも、
「明日なら行ける」
と連絡が来た。
「大丈夫」
と返す。
父がベッドで、
「いつも悪いな」
と言った。
娘は笑って、
「大丈夫」
と三度目を口にした。
黒い少年が現れる。
「何を代わりますか」
娘は着替えでも仕事でもなく、
「寝ること」
と言った。
口にしてから泣いた。
一晩眠れば、父に何か起きる気がして怖い。弟へ任せれば、自分だけ逃げたように思う。会社を休めば、介護を理由にしたと思われる。
少年は父のベッド脇へ座った。
「朝まで、ここにいます」
「猫に何ができるの」
「動く気配があれば、物を落とします。猫はそれが得意です」
娘は隣室で横になった。
本当に眠れるとは思わなかったが、朝まで一度も目を覚まさなかった。
目覚めると、弟が台所で泡だらけの床を拭いていた。
少年が勝手に窓を開け、弟を呼び入れたらしい。
「来なくていいって言うから、来ない方がいいと思ってた」
弟が言う。
父も、
「お前が寝てる方が、こちらも謝らずに済む」
と笑った。
黒い少年は窓辺で猫へ戻り、朝日に溶けるように消えた。
それから娘は、最初の「大丈夫」の前に考えるようになった。
本当に自分でできるのか。
できても、一人でやりたいのか。
頼んだ方が皆の暮らしが続くのか。
弟へは曜日を決めて任せ、訪問介護も増やした。
父は失敗するたび謝るのをやめ、必要な手伝いを先に言うようになった。
三度目の大丈夫を言っても、猫はもう来ない。
代わりに家族の誰かが、
「それ、本当?」
と聞き返す。
一つだけ代わってもらうなら何かを、自分で選べるようになるための恩返しだった。