乾燥機の向こうの子守歌

 深雪は休憩室のソファに座ると、まず靴を少しだけ緩める。

 介護施設の夜勤は、足音を小さくする仕事でもあった。廊下を急ぐときも、眠っている人の夢を踏まないように歩く。午前一時五十五分、ようやく取れた休憩では、自分の呼吸まで静かにしなければならない気がした。

 休憩室の照明は暖色だった。けれど隣のリネン室から、乾燥機の回転音が絶えず届く。

 ごう、ごう。

 止まりかけて、また回る。

 空調は弱く、窓を細い雨が撫でていた。

 深雪は弁当の蓋を開けた。白いご飯と卵焼き。朝、自分で詰めたはずなのに、遠い人が用意したもののように見えた。箸を持ったまま、スマートフォンの画面を見る。誰にも送らない文章を、メモ欄に三行書いて消した。

 今月、同期が昼の部署へ移った。祝いの言葉は言えた。寂しいとは言わなかった。夜勤者同士でも休憩はずれるから、もともと長く話すことはなかった。それでも同じ建物のどこかにいるという事実は、思っていたより大きかった。

 棚には、異動した同期が置いていったマグカップがまだあった。小さく欠けた縁と、消えかけた花模様。処分するか尋ねるメモに返事はなく、誰も使わないまま一か月が過ぎている。深雪はその隣へ自分の水筒を置いた。二つ並んでも会話にはならない。ただ棚の白さが少し狭くなった。

 乾燥機が一度止まり、金属の中でタオルが落ち着く音がした。

 その向こうから、細い歌が聞こえた。

 歌詞は分からない。鼻歌に近く、二小節ほどで途切れる。夜中に目を覚ました入居者なのか、巡回中の職員なのか。深雪が耳を澄ますと、もう一度だけ同じ旋律が流れた。

 呼びに行くほどの声ではない。誰かを求める調子でもない。ただ、眠れない人が自分のために歌っているようだった。

 やがて乾燥機が再び回り、歌を隠した。

 深雪は冷えた卵焼きを食べた。甘さが少し強い。母の味ではなく、自分が砂糖を入れすぎた味だった。

 壁の時計が二時を指す。雨はまだ窓を撫でている。誰の歌だったのか確かめないまま、深雪は弁当を半分食べ終えた。

 休憩終了の前に靴紐を結び直す。廊下へ戻れば、また誰かの眠りのそばを歩く。

 今夜、自分の眠りだけが遠くてもいい。乾燥機の向こうで短く歌った人と同じように、深雪は自分の夜を小さく運べそうだった。