予習しない映画

由良は映画館へ行くと、必ずノートを持っていった。

映像制作会社で働き始めて三年。休日に見る映画も、照明、編集、台詞の間を学ぶ教材になった。感想より先に構図を書き留め、帰宅後は関連作品を調べる。何も学ばず楽しむだけでは、同僚に置いていかれる気がした。

土曜の午後、由良は駅前の小さな映画館にいた。上映まで二十分。鞄には新品のノートと三色ペン、パンフレットを折らずに入れる透明ファイルがある。昨日までの十二連勤を終え、朝は起き上がれなかった。それでも一日を寝て潰すのが怖くて、評判の作品を予約した。

ロビーの椅子で、由良はスマートフォンを開く。監督の過去作、撮影監督のインタビュー、予告編の考察。事前に知っておけば、見落としが減る。検索結果を読み進めるうちに、文字が滑って頭に入らなくなった。画面を閉じると、ガラスに自分の疲れた顔が映った。

入場案内が始まり、由良は中央の席に座った。暗くなる前にノートを膝へ置き、ペンのキャップを外す。前の列では、若い二人がポップコーンを分けていた。何も準備せず笑っているように見え、その軽さが羨ましくも腹立たしくもあった。

予告が一本終わる。由良は「冒頭、環境音から」と書いた。二本目では「青系、固定カメラ」。本編が始まる前から、ページには仕事の文字が並んだ。

照明がさらに落ちたとき、ペン先が紙を外れ、手の甲に黒い線を引いた。

由良は暗闇で、その線を指でこすった。消えない。ノートへ戻そうとしたが、肩が鉛のように重かった。今日ここへ来たのは、上手くなるためだったのか、倒れないためだったのか、自分でも分からなかった。

スクリーンに最初の風景が映る。由良はノートを閉じた。鞄にしまえば、あとで取り出してしまう。そこで椅子の下へ滑らせ、両手を空にした。

映画は、海辺を歩く一人の女性から始まった。由良は光の方向も、レンズの種類も考えかけた。そのたびに、手の甲の黒い線へ親指を置いた。記録しないまま場面が過ぎていく。見落としたものは戻らない。けれど、戻さなくていい場面もあるのかもしれない。

終映後、周囲が立ち上がっても、由良はしばらく座っていた。泣いた理由を分析せず、映画の評価も検索しなかった。椅子の下からノートを拾う。最初の二行だけが残っている。

帰りの電車で、そのページを破らなかった。感想を書き足しもしなかった。鞄の中には、仕事にならなかった映画が一つ入っていた。