二つの鍵が回るまで
黒瀬は、隣室の住人が帰る音を知っていた。
廊下を濡れた靴が近づき、傘の先が一度床へ当たる。上の鍵が回り、少し遅れて下の鍵が回る。ドアが閉まり、チェーンが掛かる。午前零時を過ぎると、黒瀬はその一連の音を待つようになっていた。
顔を合わせたことは二度しかない。
挨拶をしただけの、同じくらいの年の女性だった。名前も仕事も知らない。それでも二つの鍵が回ると、この階の夜が閉じたようで安心した。
今夜は雨だった。
廊下の非常灯が玄関の隙間から緑色に入り、冷蔵庫のモーターが低く回っている。黒瀬はソファで膝を抱え、零時半、一時、一時半と時計を見た。隣の鍵はまだ鳴らない。黒瀬は玄関の照明を点けたまま、何度も水を飲んだ。鍵の音がする前に風呂へ入ると、そのあいだに何かを聞き逃す気がして、帰宅後の手順まで隣へ預けていた。知らない人に頼まれたわけでもないのに、待つことが習慣になっていた。帰宅音が遅い夜ほど、廊下の気配を拾おうとしてテレビもつけなかった。静けさを守っているつもりで、自分の時間を止めていた。
一人暮らしを始めて半年になる。友人には慣れたと言った。けれど本当は、隣の帰宅音や上階の風呂の排水音を、建物が無事である証拠のように集めていた。誰かが帰るまで、自分の夜も終わらせられない。
二時近く、エアコンが止まった。
急に広がった静けさの中で、黒瀬は自分の玄関を見た。上の鍵、下の鍵、チェーン。出かける予定も、訪ねてくる人もない。それでも三つとも、ちゃんと自分の手で閉めてある。
台所へ行き、炊飯器の予約を七時に合わせた。米が水を吸う小さな音がする。明日の朝、隣の人が帰っていてもいなくても、ご飯は炊ける。
廊下の灯りを消し、ベッドへ入った。雨は続き、冷蔵庫がまた回り始めた。
目を閉じてからしばらくして、遠くで傘の先が床へ触れた。上の鍵が回り、下の鍵が回る。
黒瀬は起き上がらなかった。
チェーンの音まで確かめず、布団の中で一度だけ息を吐いた。今夜の戸締まりは、もう自分の分だけで足りていた。