二つ目の傘
雨の夜、私は見知らぬ女の傘を返しに行った。
駅裏の喫茶店は、十一時を過ぎても看板を消していなかった。曇ったガラスの向こうで、店主が一人、椅子を逆さにしている。私は紺色の傘をたたみ、軒下で二度水を払うふりをしてから扉を押した。
「もう閉店ですが」
「昼に、ここで預かった傘です。持ち主が探しに来るかと思って」
店主は傘を見た。銀色の持ち手に、小さな鳥の飾りがついている。
「こんなの、ありましたかね」
「窓際の席です。若い女性が置いていった。赤いコートの」
私はできるだけ曖昧に言った。顔は覚えていない。髪は長かった気がする。連れはいなかった。そう答える準備をしていた。
店主は傘立てを引き寄せた。私はそこへ差そうとして、手を止める。傘は雨の中を運んできたのに、布の内側まで乾いていた。店主が気づく前に、入口のマットへ先端を押しつけ、水滴を二つ拾わせる。
「昼なら、レジの記録があるかも」
店主が端末を触り始めた。私はポケットから折れたレシートを出した。日付は今日、時刻は二十三時十二分。閉店後の数字だった。
「これ、その席に落ちていました」
店主は首をかしげたが、老眼鏡を取りに奥へ引っ込んだ。私はレシートをカウンターに置き、傘の持ち手を布で軽く拭いた。全部ではない。親指の幅だけ、拭かずに残す。そこだけ油じみた指紋が、街灯の光を鈍く返した。
やがて店主が戻り、防犯カメラを確認すると言った。私は、親切な人もいるものですね、と笑われた。礼を言われるほどのことではない、と答えると、自分でも驚くほど穏やかな声が出た。
店を出ると、雨脚は強くなっていた。車は路地の暗がりに止めてある。後部の窓は内側から曇り、トランクの底で何かが一度だけ鳴ったような気がした。
私は振り返らない。傘を返しに来たのではない。
赤いコートの女は、もうこの店へ戻れない。乾いた傘と閉店後のレシートと、駅前で酔っていた男から移した指紋だけが、彼女を今夜ここにいたことにする。
私はトランクを開ける前に、二つ目の傘を差した。