二つ穴のボタン

父は、自分のシャツではなく、息子の制服を差し出した。

「これ、つけてくれ」

津久井玲奈は、病室の丸椅子に置かれた白いワイシャツを見た。左袖のボタンが一つ取れている。弟は来週、高校の卒業式を迎える。父がそこまで生きられないことは、家族全員が知っていた。

「お母さんのほうが上手だよ」

「今、役所に行ってる」

「帰ってからでいいじゃん」

父は窓の外を見た。返事をしないときは、頼みを引っ込めないときだ。玲奈は小学校の工作以来、針を持っていなかった。

裁縫道具は父の入院鞄に入っていた。透明なケースの中に、白糸、黒糸、安全ピン、予備のボタンが並んでいる。父が自分で用意したのだろう。頼み事まで準備されていたことが、玲奈には少し悔しかった。

スマートフォンには弟から「親父、起きてる?」とだけ届いていた。卒業式の話は書かれていない。父も弟も、肝心なことほど相手が先に言うのを待つ。玲奈は返信せず、ワイシャツの襟を指でならした。洗いたての糊の匂いがした。

ベッド脇のテーブルにシャツを広げる。袖口の布には、元の糸が短く残っていた。父は二つ穴のボタンを一つ選び、玲奈の手のひらへ載せた。

「四つ穴じゃないの?」

「反対を見ろ」

右袖には、同じ二つ穴のボタンがついていた。玲奈は針に糸を通そうとしたが、先が何度もそれる。父が手を出しかけ、途中で引っ込めた。その指は、紙をめくるだけでも震えていた。

三度目で糸が通った。玉結びは大きくなり、最初の一針は表へ斜めに出た。

「曲がった」

「袖だから見えない」

父はそう言った。昔、通知表の字を失敗した玲奈に、余白だから見えないと言ったときと同じ調子だった。

弟は、父が直したと思うだろうか。玲奈がつけたと分かるだろうか。どちらでもいい。卒業式の朝、ボタンがそこにあればいい。

父は玲奈が小学生のころ、取れた名札や給食袋の紐をいつも直した。縫い目は母より粗かったが、朝までには使えるようになっていた。今、その手は掛け布団の上で動かない。

穴を往復するたび、白い糸が少しずつ太くなる。最後に糸を二度くぐらせたが、結び目が浮いた。父は何も言わない。

玲奈はケースから小さなはさみを取り、余った糸をできるだけ短く引いた。

刃を閉じると、乾いた音が一度だけした。